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755 多田図尋常小学校の人々 「国やマスコミを鵜呑みにせず自分の頭で考え調べること」


 本日、多田図尋常小学校の3時間目の授業は、東京大空襲を体験された野末和志さん(テキスタイル・プロデューサー)から伺った「虚無の体感〜東京大空襲を生き延びて〜」です。
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「虚無の体感〜東京大空襲を生き延びて〜」


灰色の世界
「朝、目が覚めたら、周りは全て灰色でした。色のない世界、グレイの世界です。空も灰色、山の手の、木造住宅地は全て灰燼。地平線まで灰色です。なにもかも燃え尽きた後の灰色は、茶色味のカラードグレイ(「アッシュグレイ)」。人の声も鳥の鳴き声もなく、無音なんです。風も、臭いもありません。ところどころに黒い物体がありました。、それは真っ黒焦げの人の焼死体だったのです。そこには恐ろしさや、驚き、悲しみ、涙といった感情や情緒も一切ありませんでした。地面はまだ温かでした
 当時、私は小学校の2年生で、学童疎開(*1)の対象ではなく、両親と弟の家族4人で巣鴨に住んでいました。

3月4日の大空襲の当日も庭に掘った防空壕に避難していました、が、近づく爆発音と焼夷弾の火に、父親は「ここは危ない」とリヤカーに私と弟を乗せ、かぶせた布団の上に、防火水槽の水をかけて、母親がリヤカーを後から押し、火が流れる道を避けながら、必死に駒込の六義園まで逃げました。
 六義園は、回遊式築山泉水の大名庭園です。赤レンガの高い塀をめぐらし、出入りは鉄門のみ。当日、着いてはみたものの、門を閉じ、中には入れません。仕方なく塀に張り付いて、周りの家々が燃えるのを呆然と見ているだけでした。燃える家々を背景に、バケツリレーで消火にあたる国防婦人服姿の主婦たちの光景は、”効果なし、まったく無駄”と映りました。
「防空法」で、空襲時に、逃げることを禁じ、消火することを命じられていました。男たちは召兵されていない。残された女性だけで消火するわけです。ガソリンを撒きつつ落下する焼夷弾にはひとたまりもありません。そのうちに疲れた私は眠ってしまい、目を覚ますと、住宅群は跡形もなく、茫々千里。東京が灰色一色になっていました。


 *1 都市部の、3年生以上の学童を,親から引き裂き、強制的に、田舎へ移住させた。それは、親を失った「戦災孤児」を生み、学童たちは盗みを働く「浮浪児」よばれて収容施設に閉じ込められた。「防空法」に縛られた主婦たちは炭化されるしか術はなかった。これらの民間人に、国からの補償はない。泣きをみるのはこうした人たち。


艦載機の機銃掃射・終戦
 父が「戻ろう」と我が家に帰るも、残ったのは庭の防空壕だけ。そこで生活するのは無理。で、父親の生れた浜名湖の奥に在る井伊谷村に引っ越し、そこの国民小学校に通いました。飢えへの不安と”買い出し”は消えました。近くの浜松には軍の基地があるので、アメリカの艦載機が飛んできます。学校へ行くには、田んぼや畑を通って行くんです。が、彼らにとって登下校の小学生は、格好のターゲットなんですね。グラマン(*2)とか、P51マスタングとかが飛んでくると、一斉に伏せるんですが、振り返ると低空で撃ってくるパイロットの顔が見えるんです。向こうはゲーム機の感覚で射撃するのですが、さっきまで遊んでいた仲間が一瞬で死ぬんですよ。そんな日々を送っていました。(艦載機の機銃掃射は東京・巣鴨での通学時に校庭でも受けていました。子どもには抗う術はなく伏せるだけのワンサイドゲームの戦場。私は戦場を二つ経験したわけです)

ある日、大事なお話があると、学校の全生徒が校庭に集められ、聞いたのが玉音放送(終戦を告げる天皇陛下の放送)でした。正直「よかった」と思いました。
 戦争中の私は軍国少年でした。戦意高揚のための花電車や、「爆弾三勇士」の映画にワクワクして、14歳になったら少年兵に志願するつもりでした。苦しくても最後には

”神風が吹いて日本は勝つ”と思っていました。軍艦マーチ付きの”大本営発表”を信じていました。大空襲にも、機銃掃射にも負けず、軍艦マーチと”大本営発表”を信じてきました。そして、神風が吹くことなく、終戦。現人神(あらひとがみ)であった天皇陛下は人間になってしまいます。「教育勅語」は読まれなくなり、使っていた教科書には、黒塗り、糊付け箇所が多くなりました。そこは、読んではいけないわけです。「一億総ざんげ」、全国民が悪かった。踊らされた私が悪かった、というわけです。踊らせた者の思惑を読めなかった愚者、衆愚の報い。価値観が大きに変わりました。

 

今、伝えたいこと

 今、私が一番お伝えしたいのは「国やマスコミの情報を鵜呑みにせず、自分の頭で思い、考え、自分で調べること」です。軽々しく同調しない、風潮に流されない。その裏で操る者とその思考を察知する、自分の知性を磨き続けることが大事、と思います。
 ぜひにと、おすすめしたいのは、上田市(長野県)に在る「無言館」です。戦没画学生の作品を展示しています。

”死に行く、若者たちが残した心”の陳列館です。言葉では表せない思いを読むわけです。生きて帰ることはない。と察した画学生たちが、最愛の人に残そうと描いた絵、果たせなかった家族団らん景の絵、戦線からの自作絵葉書などです。これは美術というより、言葉では表せない表現機能の有用性を示してもいます。美しさの堪能とは異なる、造形作品との接し方を感じ取るでしょう。感性アップに有効です。


*2「グラマン」とは、艦載戦闘機「F6Fヘルキャット」や「F7Fタイガーキャット」のことだそうです。
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以下は尋常小学校校長(中城)の感想です。

●正直に言うと、今回の授業の冒頭から灰色の世界について淡々と語られる野末さんに戸惑いました。東京大空襲の悲惨な体験を話されるのかと思っていましたから。でも当時、小学校2年生の野末さんが、全身で受け止めたのは、この世界だったんですね。それまであった世界が一夜にして全て消えて灰色の世界に変わってしまった。この時、軍国少年だった野末さんが一度消えて、価値観も含めて再構成されていく。おそらく今も当時受けたものを引き受け続けておられるのではと思いました。
そして印象的だったのは私がウクライナ関連で歴史の話をした時に「私は地政学は信じません」と話されたことです。歴史を分析したり、あれこれ理屈を捏ねることへの強い拒否感を感じました。大きな宿題をいただいたように思います。ありがとうございました。 
 
 次に元小学校教師の井上清三さんの感想を紹介します。

●三時間目は「東京大空襲の体験談」。途中で抜けてすみませんでした。最初に話してくれた焼け跡の「原風景」がものすごくリアルに感じました。「全体が暖色系の灰色」「色味がない」「物音がしない」「においもない」「真っ黒こげの人間の死体」「白っぽい地面の中に点々と黒(死体)」「地面は暖かかった」「まったく何もない世界」。実際に体験された方のリアルな実感を、私の身体で感じた気がしました。


 また井上さんの教え子の方からも次のような感想をいただきました。

●今回、実際に東京大空襲を実際に経験されたお話を聞けるとのことで、地獄絵図の言葉を覚悟していましたが違いました。たった一夜で地獄を通り越してすべてが焼き尽くされて無の空間と化したため、「灰色の世界」「恐ろしいということはない」「感情のない」世界だったとのお話で、ブラックホールのような不気味で圧倒的な無を感じました。


 さらに、野末和志さんから次のような追加のメモをいただきました。

『虚無の体感 』についての、蛇足


○東京大空襲というと、8月10日の、下町の住宅地、繁華街の焼け跡の光景が多く紹介される。で、多くの人がそれを眺める。が、その前の、3月04日。山の手の住宅地域の空爆は語られることはない。その地区は台地である。木と紙造りの家家で占められていたから、焼夷弾で、影も形も、跡形無く、茫々千里となる。この光景は生まれて初めてだった。
東京都区は、2段に分かれている。地形的にも、生活文化的にも。埋立地である「下町」と、武蔵野に続く台地の「山の手」地域に、である。

(*ビルの多くは銀座などの埋立地に建っており、台地の山の手は、ほとんどが木造住宅だったそうです)
○機銃掃射の記述は、ほとんどといえるほど少ない。無差別攻撃による民間人の死亡者が出ていたのに。無抵抗の戦場。予行練習なしの実戦の場。が都心に在ったこと。
○有彩から無彩。「殺られる」から残れた。そこが、始元。済んだコトに感傷は無い。



*井上さんの教え子の方との対話は、気づかされたことあり、で、”大事もの”です、私にとって。
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 これまで東京大空襲や、戦闘機の機銃掃射を受けたお話は、知識としてしか受け止めてこなかった私ですが、今回、初めて、小学生の当事者の視点で伺うことができ、生身の人の言葉が生々しく伝わってきました。ありがとうございました。

 次回は野末さんの専門でもある衣服の色彩についてのお話や、ご趣味「単独行・登山」のお話もぜひ伺いたいと思いました。   

            多田図尋常小学校 中城