795 多田図尋常小学校の人々「次回のチェリスト編はマイナルディとカザルスです」


 2時限はミュージックバリスタT.eng氏Coffee Break Music In Tadaz」のヴァイオリニスト特集の第5回。今回は「ベルギーの気高きヴァイオリニスト」
アルテュール・グリュミオーと「20世紀を駆け抜けた神童」ユーディ・メニューインを取り上げました。
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ベルギーの労働者階級生まれのグリュミオーは、市民楽団の祖父の勧めで3歳でヴァイオリンを始め、
シャルルロワ音楽学校、ブリュッセル王立音楽院に進み、パリに留学し、ジョルジュ・エネスコに学び14歳でデビュー、18-9歳で、超難易度の高いメンデルスゾーンのヴァイオリン協奏曲を演奏して広く知られることになりました。1945年にロンドンでデビューした後、ピアニストのクララ・ハスキルと出会い、1960年のハスキルの死まで共に活動しました。グリュミオの演奏は技巧的というより、楽器を歌わせるタイプで、モーツアルト、バッハからパガニーニ、ストラビンスキーまで、つまり古典から20世紀音楽まで幅広く演奏。特にビブラートをきかせた美しい音色「美音」は他の演奏家にはマネのできないものでした。
 一方、ニューヨーク生まれのユダヤ系アメリカ人で、神童と呼ばれたメニューインは4歳でヴィオリンを始め、7歳で初舞台を踏み、パリでエネスコ、ドイツでアドルフ・ブッシュの指導を受けるなどの英才教育を受けました。ピアニストの妹へプシバとも共演して録音した音源も残されています。
 

 

第二次世界大戦でアメリカに亡命し、病気で苦しんでいたハンガリー出身の作曲家バルトークに援助を兼ねて無伴奏ヴァイオリンソナタの作曲を依頼し、メニューインが初演したこともあります。終戦後、ナチス協力を疑われていたフルトヴェングラーと共演したメニューインはアメリカのユダヤ人の強い反感を買ったこともあり、イギリスに移住し帰化。1999年に死亡しました。日本に反感を持ちながら1951年に初来日。しかし来日をきっかけに親日家に変化し皇室との演奏も行いました。戦後、慰問演奏など現場に立ちすぎたのか、芸術的困難にぶつかり、演奏も当たり外れの不安定さが現れるようになりました。そこから座禅やヨガなどを行い、音楽の本質と向き合うようになり、演奏も厳しさに優しさが加わり表現力の幅が広がっていきます。バッハのヴァイオリンのパルティータを、彼が20代の1936年の録音と20年後の1957年の録音と聴き比べてみると、1936年の方が美音ですが、私はさまざまな体験している1957年の方が私は好きです。

 さてヴァイオリン編は今回で終わりとして次回からはチェリスト編が始まります。ご期待ください。
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T.eng氏の一言感想です。
●次回はマイナルディとカザルスを取り上げます。選曲の難易度はこれまで以上に難しいですがやってみせます。