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800 多田図尋常小学校の人々「カザルスは濃い。単独でやらないとアカンです」


 2時限はミュージックバリスタT.eng氏「Coffee Break Music In Tadaz」のチェリスト特集のスタートです。第1弾は「ミラノが生んだチェロ貴族、エンリコ・マイナルディ」と「カタルーニャが生んだチェロの神様、パブロ・カザルス」を取り上げました。
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 ミラノ生まれのマイナルディはアマチュア、チェリストの父から2歳の時にチェロをプレゼントされ、5歳からジュゼッペ・マグリーにからレッスンを受けて、難曲を与えられるもメキメキ上達。ミラノ音楽院に進学して12歳で卒業しました。音楽院では毎日、朝7時から夜9時まで厳しい生活を送っていたので、息抜きにドイツに渡り、ベルリン・フィルと共演。その演奏会が好評で、以後、ヨーロッパ各地で演奏会を開きました。再びイタリアに戻ったマイナルディはドイツ人のチェリスト、フーゴー・ベッカーから指導を受けたのですが、その時、ベッカーに自作のチェロソナタの初演を頼んでいた作曲家マックス・レーガーを紹介され、ベッカーの代わりに演奏しました。そこから広く知られて、多くの演奏の依頼がくるようになりました。第一次世界大戦で演奏活動ができず、スランプになったのですが終戦後、ドレスデンや、ベルリンフィルのチェロ奏者を務め、トリオを結成したりして奇跡的に復活しました。第二次世界大戦後には、ナチス疑惑の渦中だったフルトヴェングラーに声をかけて初の演奏会を実現させたのです。マイナルディの演奏は、どちらかというと内向的で歌いかけるような演奏で、イタリアのベルカントの影響か決して暗くなりすぎることはありませんでした。そして「私は音楽のために演奏しているので、人の注目を浴びるために演奏をしているわけではない」とも言っていました。
 一方、チェロの神様で、カタルーニャ生まれのパブロ・カザルスは4歳でピアノ、6歳で作曲、9歳でオルガン、11歳でチェロを始めました。1988年にバルセロナ音楽院に入学。入学中、カフェで働くと、遠くからも多くの人が彼の演奏を聴きに来ました。1890年にバッハの無伴奏チェロ協奏曲の楽譜と出会い、その後、マドリード、ブリュッセルと転居し1899年にパリでデビューしたのです。

 

以来、世界各地で演奏し始めました。1905年にチェロの最高峰と言われるカザルス三重奏団を結成。終戦後も各国がフランコ政権を認めたため抗議の演奏を放棄しました。1955年にはプエルトリコに移住し、ケネディ大統領の依頼でホワイトハウスで演奏したり、国連でも演奏しました。その時に演奏した「鳥の歌」の演奏で「カタルーニャの鳥は平和を願ってピース、ピースと鳴くんです」と挨拶したことは有名です。カザルスは演奏だけでなく平和、政治活動を積極的に行う「戦うチェリスト」でした。そして1975年に亡くなりました。

 チェロの神様カザルスは常にチェロの未来を切り開き続けてきました。それまで両肘を脇につけて弾く伝統的な奏法に違和感を抱き、両肘を脇から離し、指を広く開けることで、より自由な表現ができると10年かけて演奏法を作り上げました。弦楽器で有名なストラディヴァリウスは「自分本来の音色でなくなると」使用しませんでした。とにかく音楽だけでなく政治の世界でも、己が確立していて、自分の信念は最後まで曲げなかったチェリストだったのです。
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 カザルスの国連での話は聞いたことがありましたが、こんな背景があったのですね。チェロはヴァイオリンより音域が低いので、聞いていてより自然に体に入ってくるような気がします。次が楽しみです。T.eng氏の感想です。
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 次回はフレンチのチェリスト、トルトゥリエとフルニエをお届けします。しかし今回、取り上げたカザルスはとにかく濃い。どこかで特別編やるときに単独でやらないとアカン濃さです