3時限はミュージックバリスタT.eng氏のDJ「Coffee Break Music In Tadaz」のチェリスト編の第2弾で「フランスチェロ界の二大巨頭・ポール・トルトゥリエとピエール・フルニエ」です。
チェロの神様といえばカザルスですが、この二人も立派なレジェンドです。出自も時代も同じこの二人は良きライバルであり、共にフランス流の洒落っ気とエスプリで、チェロの世界を広げたと言っても過言ではありません。
1914年パリ生まれのトルトゥリエは6歳でチェロを始め、12歳でパリ音楽院に入学。16歳でチェロ学科を1位で卒業し、デビューしました。以来、ボストン交響楽団やパリ管弦楽団などで首席チェロ奏者を務めワルター、トスカニーニなどの巨匠とも共演。かの作曲家リヒャルト・シュトラウスからも「私の曲を演奏して欲しい」と頼まれて交響詩「ドンキホーテ」を演奏しました。またコンセルヴァトワールなど多くの音楽学校で教授も務めました。有名なバッハの無伴奏チェロ組曲だけでなく、楽譜の書き込みが少なく確実な音楽解釈が求められるドビッシーのチェロソナタも全く迷いなくきっちりと演奏して高い評価を得ています。
チェリストだけではなく作曲家としても有名でチェロの「二重協奏曲 - 2台のチェロとオーケストラのための」や「イスラエル交響曲」を作っています。
曲を演奏するときに「もっとこのリズムがいい」などと、常に作曲家の視点で曲を再構成しているので「有名なアーティストがなぜ作曲しないのかが不思議だ」と言っていました。より良い演奏を追求してチェロのエンドピンの形を変えてみたりと、常にチェロの可能性を模索し続けていました。
1914年パリ生まれのトルトゥリエは6歳でチェロを始め、12歳でパリ音楽院に入学。16歳でチェロ学科を1位で卒業し、デビューしました。以来、ボストン交響楽団やパリ管弦楽団などで首席チェロ奏者を務めワルター、トスカニーニなどの巨匠とも共演。かの作曲家リヒャルト・シュトラウスからも「私の曲を演奏して欲しい」と頼まれて交響詩「ドンキホーテ」を演奏しました。またコンセルヴァトワールなど多くの音楽学校で教授も務めました。有名なバッハの無伴奏チェロ組曲だけでなく、楽譜の書き込みが少なく確実な音楽解釈が求められるドビッシーのチェロソナタも全く迷いなくきっちりと演奏して高い評価を得ています。
チェリストだけではなく作曲家としても有名でチェロの「二重協奏曲 - 2台のチェロとオーケストラのための」や「イスラエル交響曲」を作っています。
曲を演奏するときに「もっとこのリズムがいい」などと、常に作曲家の視点で曲を再構成しているので「有名なアーティストがなぜ作曲しないのかが不思議だ」と言っていました。より良い演奏を追求してチェロのエンドピンの形を変えてみたりと、常にチェロの可能性を模索し続けていました。
一方、同じくパリ生まれのフルニエは当初ピアノを学んでいましたが9歳で小児麻痺にかかってピアノを断念、チェロに転向しました。12歳でパリ音楽院に入学し、カザルスからも助言など受けながら一等で卒業。1924年にデビューしました。1927年からヨーロッパで演奏活動を始め、1934年にベルリンフィルと共演。戦後は世界的なチェリストとして室内楽にも傾注し、カザルス・ティボーとトリオを組んでみたり、ヴァイオリニストのシゲティなどとカルテットを結成したりしました。またピアニストのケンプ、バックハウス、ルービンシュタイン、グルダなどとも共演し、多くの音楽家と良好な関係を持っていました。
演奏はガンガン行くようなタイプではなく奥ゆかしい謙虚なチェリストで「チェロの貴公子」とも呼ばれていました。ある時、グルダの父親が自分のチェロを持ってきてサインを頼むと気軽に応じたという話が残っています。演奏ジャンルは広くバッハからベートーベン、現代音楽まで演奏しました。
最後にベートーベンのチェロソナタ3番をグルダのピアノでウィーンとパリ気質の共演をお楽しみください。
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最後にベートーベンのチェロソナタ3番をグルダのピアノでウィーンとパリ気質の共演をお楽しみください。
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次の放課後フリートークでも参加者の方が「これがベートーベンの曲とは信じられません」とびっくりしたくらいイメージが大きく変わっていました。実は校長(中城)は講義のメモ取りに必死で、あまり聴けなかったのですが、でも今までのチェロよりも音色が明らかに軽やかだったイメージが残っています。これがフランスのエスプリなんでしょうか。とするとアジアのチェリストの音色が気になってきました。T.eng氏の感想です。
●次回は特別編として「祈りの音楽—『Play(演奏)』と『Pray(祈り)』との間」をお届けします。