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826 多田図尋常小学校の人々 「次回はムラヴィンスキーとシフラを取り上げます」


●3限目 音楽
   「Coffee Break Music In Tadaz」
 バリスタの気まぐれブレンド編第1弾
エーリヒ・クライバーと
      カルロス・クライバー
20世紀をまたにかけた親子の華麗なる音色の軌跡〜
         T.eng氏(音響エンジニア)

 今回から始まった「バリスタの気まぐれブレンド」編の第1弾です。親子の名演奏家というのはバイオリニストやピアニストなどにもいるのですが、今回は世界的な指揮者のエーリヒ・クライバーと、その息子の天才的指揮者のカルロス・クライバー、この親子にスポットライトを当てていきます。
 
 父親のエーリヒは1890年のウィーン生まれ。プラハ音楽院で演奏や指揮をプラハ大学で歴史や哲学を学び、その時に聴いたオペラハウスのマーラーの指揮に憧れ指揮者を目指します。1911年にプラハの歌劇場の指揮者から務め、いくつかの指揮者を歴任して1919年にはマンハイム、1923年にはベルリン国立歌劇場の音楽監督に就任、伝統的なオペラだけではなく、現代作品も意欲的に取り組み、ニューヨークフィルやウィーンフィルなど他のオーケストラにも客演して高い評価を得ていました。しかし台頭してきたナチスが現代音楽を退廃音楽として弾圧したため、ユダヤ系の妻と息子のカール(後のカルロス)と共にアルゼンチンに移住しました。1936年にはブエノスアイレスのドイツオペラの首席指揮者となり、アルゼンチンのオペラのレベルアップに多大な貢献をしました。終戦後の1947年にヨーロッパでの活動も再開して、1951年からベルリン国立歌劇場でも指揮をしますが、1955年に共産主義の東ドイツ政権と対立して辞任。ウィーンフィルのアメリカツアー指揮者に決まるも1956年に亡くなってしまいます。
 その指揮はオペラの言葉のリズムなどの細かいところも厳しく追求しながら、曲の全体像を決して見失うことがなく、無駄な部分は徹底的に削ぎ落として最高の音を求めるドイツ的、あるいはウィーン的な音楽を見事に実現しています。
 

 

 

 一方、息子のカルロスは1930年のベルリン生まれで、エーリヒからは音楽的才能は認められるも、父の勧めで大学に進学しますが、途中で音楽に戻って1954年には指揮者としてプロデビューします。有名なエーリヒ・クライバーの息子だということを隠すためにしばらく偽名を使っていました。その後、チューリッヒ歌劇場、バイエルン国立歌劇場の指揮者を経て、ウィーン歌劇場でウィーンデビュー、さらにロンドンのロイヤルオペラ、シカゴ交響楽団などでも指揮をして高い評価を受けます。性格はとても繊細で演奏も年に数回のみ、それも演奏のキャンセルが多いのですが、彼がどこかで指揮をするというだけで評判となり、チケットも発売と同時に完売しました。1999年に事実上の活動休止して2004年に前立腺癌で死去します。

 天才指揮者のカルロスは徹底した完璧主義のため演奏やレコーディングのキャンセルも多く、演奏のレパートリーも絞っていました。演奏前には作曲家の自筆譜を調べ、他の演奏家の演奏も入念にチェックするほどで、リハーサルでも楽団員に細かく説明しました。その一方で本番では流麗優美な演奏と指揮姿で観客を魅了し、カール・ベーム、カラヤン、バーンスタインなど、多くの指揮者からも高く評価されています。

 

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 新しく始まった「バリスタの気まぐれブレンド」シリーズ、今回は「親子の演奏家」という切り口でしたが、次はどんな切り口となるでしょうか。次回が楽しみです。
T.eng氏の一言感想です。
「次回はムラヴィンスキーとシフラを取り上げます」