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830 多田図尋常小学校の人々 「次回は『カラヤンのライバルたち』と題してバーンスタインとベームです」


●3限目  音楽
「Coffee Break Music In Tadaz」
 バリスタの気まぐれブレンド編第2弾
ムラヴィンスキーとシフラ
〜時の政権と喧嘩したロシアと東欧の名演奏家
 
      T.eng氏(音響エンジニア)
 前回から始まった「バリスタの気まぐれブレンド」シリーズ。今回は時の政権と喧嘩したロシアの名指揮者エフゲニー・ムラヴィンスキーと、ハンガリーの超絶技巧ピアニスト、ジョルジュ・シフラという二人の演奏家を取り上げました。
 サンクトペテルブルク生まれのエフゲニー・ムラヴィンスキーは父が亡くなってから、劇場の楽屋で働いたりバレーの音楽コーチとして活躍します。当初は大学で生物を学んでいましたが、叔母の推薦でレニングラード音楽院に入学して正式に音楽を学びます。1929年にはプロデビューして、以来、キーロフ・バレエ、ボリショイ・オペラなどで指揮をして実績を積み、1931年にはレニングラード・フィルでデビュー、1939年には主席指揮者に就任しました。
ムラヴィンスキーの指導の元、レニングラード・フィルは国際的名声を得て、特に1956年のモーツァルト生誕200年祭でウィーンを訪問してから西側でも有名になりました。1973年には来日公演をしています。ムラヴィンスキーのラストコンサートは1987年の3月で、その後、病気と闘いつつ1988年に亡くなっています。50年近くレニングラード・フィルで指揮をして国家的な高い地位を得るも、ソ連の指導部には反感を持ち共産党員にはなりませんでした。反政府小説家のソルジェニーツインの弾劾決議文の署名を求められた時にも「彼の本は発禁処分されているので私は読めない」と拒否しました。晩年に心臓を患った時にウィーンで手術した時の費用はウィーン学友協会が負担するほど、西側でも尊敬されており、政府も迂闊に手出しができませんでした。
 厳格な音楽的解釈、キッチリとしたテンポにより、レニングラード・フィルを手足のように使いこなす見事な指揮でした。指導も徹底した完璧主義で、来日した際に日本の関係者が「あんな上手なオーケストラにここまでやるとは」と驚いたほどでした。演奏レパートリーもチャイコフスキー、ショスタコーヴィチ、プロコフィエフからモーツアルト、ベートーヴェンまで幅広いものでした。

 

 

 一方のジョルジュ・シフラは1921年にブタペストでロマの家系に生まれました。居酒屋やサーカスで即興演奏を行い、その後、フランツ・リスト音楽院に入学しました。21歳の時にハンガリー軍に徴兵され東部戦線に送られましたが、列車から飛び降りて脱走を図るも国境でソ連側に発見され捕虜になってしまいます。2年後、収容所から脱走するのですが再び捕まってしまい、今度は新生ハンガリー軍の戦車長となって終戦を迎えました。終戦後、しばらく盛り場でピアノを弾いていましたが、ハンガリーにも共産政権が成立したので亡命を試みますが失敗。とうとう投獄され強制労働をさせられます。3年後のハンガリー動乱に乗じて、家族でウィーンにようやく亡命することができました。以後、ウィーンを拠点にして、ロンドン、パリ、ニューヨークなどで活動をし、1968年にフランスに定住して国籍も取得します。その時に、フランス語に改名します。1981年には世界的に活躍していた息子のジョルジュ・シフラ・ジュニアを自宅の火災で失い、大きなショックを受けて活動も低迷するのですが、1990年ごろから復帰に向けて活動再開しました。酒豪でヘビースモーカーでもあったシフラは肺癌を患って1994年に72歳で波乱万丈の一生を終えます。

演奏は、ロマン派音楽と相性がよく、リストの作品の絢爛豪華な演奏が有名です。「ハンガリー狂詩曲」「超絶技巧練習曲」などは個性派の解釈ですが、とても親しまれています。また対照的にショパン作品では内面的で繊細、クープラン作品では抒情性に富んだ演奏も高く評価されています。
「イスラメイ」を同じ超絶技巧派のホロヴィッツの演奏と聴き比べると、ホロヴィッツの演奏はバレエのようで、シフラの演奏は鋭い剣の舞のようです。彼の芸風のベースには、放浪するロマのような苛烈な半生があるのでしょう。

 

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 校長(中城)は指揮者ムラヴィンスキーとレニングラード・オーケストラの名前は何度か聞いたことがありましたが、ピアニストのジョルジュ・シフラの名前は全く聞いたこともありませんでした。T.eng氏のおかげで初めての出会いが続きます。それにしてもシフラのピアノはこれまで聞いたピアニストたちとはどこか異質な迫力がありました。T.eng氏の感想です。
●次回は『カラヤンのライバルたち』と題してバーンスタインとベームを取り上げます」