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833 多田図尋常小学校の人々「次回はカール・リヒターとグスタフ・レオンハルト」


●2限目 音楽
 「Coffee Break Music In Tadaz」
 本日のバリスタの気まぐれブレンド
「カラヤンのライバルたち
  〜レナード・バーンスタインとカール・ベーム

          T.eng氏(音響エンジニア)

 

 1限に続いて2限はT.eng氏の音楽「本日の気まぐれブレンド」です。
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 世界的に著名な「楽壇の帝王」ことカラヤンとライバル視されている一人目としてアメリカで最初の国際的な指揮者であるレナード・バーンスタインを取り上げます。
 バーンスタインは1918年にマサチューセッツでユダヤ教徒の元に生まれ、家庭内では音楽環境はなかったものの子供の時から蓄音機を聴くのが大好きで、父の反対を押してカーティス音楽院で学びました。ディミトリ・ミトロプーロスの指揮を聴いて指揮者になることを決意し、音楽院で指揮、作曲、ピアノを習い卒業。1934年にアルトゥール・ロジンスキの指名でニューヨークフィルハーモニックの副指揮者に就任、
同年、ニューヨークフィルハーモニー交響楽団で病気のブルーノ・ワルターの代役を務め大評判を呼びスーパースターとなりました。1958年には正式に同楽団の音楽監督に就任し、気さくでおおらかな人柄、情熱的な指揮で聴衆を惹きつけるスーパースターでした。
また1957年には有名な「ウエストサイドストーリー」も作曲しています。1969年には音楽監督を辞任してフリーの指揮者としてウィーンフィル、イスラエルフィルなど多くの楽団を渡り歩いて、作曲にも注力していきました。広島平和コンサートや、ベルリンの壁崩壊を受けて「歓喜の歌」の演奏など、社会的なメッセージを発信し続け、1990年に肺がんで72歳で亡くなります。
 演奏は自作曲含めて一聴すると柔らかく軽やかで非常に聴きやすいのですが、実際にはとても深い世界が待っています。作曲家としてもジャズ的な側面やブルースの視点とクラシックとの融合という当時として先進的な取り組みは、アメリカでジャズの巨匠マイルス・デイビスやジョン・コルトレーンたちと同時期に活動していたバーンスタインにしかできなかったことです。
 

  一方、1894年にオーストリアのグラーツで生まれたベームは父親の勧めで大学で法学博士の学位を取りますが、ブラームスの親友から個人的に音楽を学んだ後、歌劇場で指揮者デビュー。その演奏を聴いたワーグナーの友人から、バイエルン国立歌劇場音楽監督のブルーノ・ワルターに紹介され、同歌劇場の第4指揮者に招かれます。そこでワルターからモーツァルトについて深く学び、ワルターともどもモーツァルトの権威として揺るぎない地位を獲得します。1934年にはドレスデン国立歌劇場総監督に就任して活躍、シュヴァルツコップなど歌手を見出していきます。またR.シュトラウスとも仲が良く、彼の曲の初演も多数ありとても信用されていました。戦後、連合国側から演奏を禁止されていましたが解除されて、焼失していたウィーン国立歌劇場の再開記念公演で指揮をしました。1962年にはバイロイト音楽祭に登場して「新バイロイト様式」を確立させました。1981年に亡くなったときは世界に衝撃を与え、カラヤンはコンサートで「フリーメイソンのための葬送音楽」を演奏、ベームの演奏予定だったベルリンフィルは代行を立てずに演奏しました。

 ベームの指揮は映えるタイプではなくR.シュトラウスの教え通り、右手の指揮を振る以外は精神的内面的な動きで見事に作品と一体化していました。練習ではガミガミうるさく指示していますが本番ではそれが見事な形に結実し爆発的な演奏となります。

 

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昔から名前だけは知っていたバーンスタインとベームですが実際に聴いたのは初めてでした。バーンスタインはとにかく聴きやすいのにはびっくりして、彼の背景を知り納得、そしてベームは見た目通り、本当に真面目にきっちりとした演奏でした。演奏者の背景がわかると演奏の聴こえ方も変わってくるのですね。            (中城)

 そして次は本日のゲスト講師「クラウンまこっちゃん」さんの感想です。

●T.eng氏の音楽授業は興味深かったです。音楽を人間関係で検証するというのは意外に新鮮でした。
映画『アマデウス』を観た時、楽曲とその背景にあった物語の位置関係を感じてなるほどと思ったことが蘇りました。今回は楽曲ではなく指揮者にスポットを当てて、楽団の演奏にも注目するという、なかなか深い話でやはり面白かったです。
最後にT.eng氏の感想です。
●次回は「モダン・バッハとピリオド・バッハの頂」と題してカール・リヒターとグスタフ・レオンハルトを取り上げます。