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865 多田図尋常小学校の人々「教師生活を振り返ると楽しかったの一言でした」


●2限目 社会
「井上清三という
      生き方3」
 〜小学校教師、らくだメソッド、考現学
 井上清三さん(元小学校教師・
 日本色覚差別撤廃の会事務局長/空手師範)
多田図尋常小学校の理科・算数/数学担当の元小学校教師の井上清三さん。これまで「井上清三という生き方1&2」で、福島の子ども時代、三島由紀夫に憧れた高校時代、空手に明け暮れた大学時代まで詳しく伺いました。そしていよいよ社会人。小学校教師時代、仮説実験授業、らくだメソッド、考現学との出会いまで聞くことができました。
 
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 ①先生になっちゃった・・
    (もがきの時代)
 結婚するために小学校教員免許を取得することになったので、鶴川にアパートを借り玉川大学の通信教育に入って教職課程を勉強し始めます。川崎市の教員採用試験は大学受験で磨いた受験スキルが大いに役に立ちましたけど、当時は男ならだれでも受かったような感じです。教育実習は福島の母校でやりました。
 次の年の2月1日、川崎市立T小学校に採用されました。免許取得が1/31でギリギリだったのですが、教員不足という事情もあり学校が裏で調整してくれたようです。4月に結婚と同時に教員生活が始まります。何もわからないままいきなり学級担任となり無我夢中でした。自分でも何をやっているのかがわかりません。おまけに教員の飲み会では先輩から出世の方法を吹き込まれたり、気ままな大学時代とのギャップが大きく本当にきつかったです。体だけは丈夫だった私もとうとう胃潰瘍を発症してしまいます。それをきっかけに心を入れ替えます。つまり慣習や常識に従うという、自分に慣れないやり方は諦め、自分の好きなように、やりたいようにすることにしたのです。
 
②納豆作るぞ!(自由な教育実践)
そこで4年目の1年担任から自分の考えを盛り込んだ学級通信を出し始め、5年目になると、当時、革新的教育雑誌「ひと」を読むようになります。また、生徒に答えを教えるのではなく、生徒自身に答えを予測させる画期的な「仮説実験授業」の勉強会にも参加して、各地の公開授業も見にいきました。私自身も教科書を使うのをやめて、寝るのを削って独自プリントを作成するようになりました。ゴミ袋を繋げて巨大熱気球を作って屋上からあげたり、授業でも色々試みました。
 親しかった同僚が異動したことをきっかけに、私も異動を希望し新設のS小学校に赴任、そこでも、教室で大豆を煮て奥さんの実家から調達した藁苞に包み、持ち込んだ布団で1週間保温発酵させて作った納豆を食べたり、さまざまな授業を試みていました。ある日、授業中に突然、教務主任が教室に入ってきて
「井上さん、授業の週案が出ていないけど、今、出しなさい」。
私はそれまでそんなものを出したこともなく、その教師の横柄な様子にカチンと来たのですが、生徒がいる手前、冷静に「後で相談しましょう」と追い返しました。授業後にその教務主任を体育館に呼び出して「いきなり教室で要求するとは、何を考えているんだっ!!」と強い調子で迫ると、主任は顔色を変えて「井上先生に殴られた」と校長室に逃げ込んでいきました。校長には経過を丁寧に説明したのですが注意を受けてしまいました。
 次のS小学校でも私は絶好調で、新聞紙を繋げて実際の大仏の大きさの絵を描き、それを校舎の屋上から垂らして、突然暗くなった下の教室をびっくりさせたり、でも生徒に大仏の大きさを実感してもらえたと思います。他にも紙を漉いたり、大好きな「仮説実験授業」を実施したり、自分でも工夫して「算数探検物語」という独自の算数プリントを作って教科書の代わりに使ったりしました。そうそう校長が、学校便りに、軍神乃木大将の訓示を掲載したので、外部の人と「学校だよりを考える会」を作ってその活動に参加したこともありました。やりたい放題でやる私は校長と対立するし、周囲の同僚も私から次第に離れていき学校の中でも孤立化していきます。私も教室にこもって職員室にはほとんど行かなくなりました。
 

 

③先生は頑張らない・・

  (教えない教育との出会い)
 そんな時に仙台でエコロジー活動をしていた従兄の加藤哲夫さんと出会い、さまざまなワークショップにも参加するようになりました。
その中で「教えない教育」を標榜する平井雷太氏とも出会うのです。平井氏の開発した「らくだメソッド」は教材の選択から解答、採点、記録まで生徒自身に任せてしまう。教材も含めて全てを担おうとしていた私には衝撃的でした。さらには教師自身もプリントに取り組んで学び続けるのですから。また平井氏の提案する考現学にも参加します。考現学とは、ふと思ったことを文章に書いて交換し、それぞれの思いを共有したり、自分自身を掘り起こしていくのですが、その面白さも体験しました。
 新たに赴任したO小学校では考現学とらくだメソッドを導入して、子どもたちも考現学を書かせ、教室の運営に生かします。今まで一方的に教える授業で見えなかった子どもたち一人一人の姿が、手にとるように見えるようになり、私の教育観は完全にひっくり返りました。
 そして最後に赴任したのがN小学校。そこではクラス担任を外れ、いきなり大嫌いな教務主任を任されます。おまけにこの学校はひどく荒れていて、生徒が勝手に教室から出て行ってしまうし、教室ではグループになって授業を妨害するなどと、まさにカオス状態。でも、そういう時は職員が団結するようで、今までと違って私は孤立するどころか他の職員と一緒に行動するようになりました。学校経営が困難な状況だからこそ、職員相互で密に交流できたのだと思います。少し落ち着いた頃、私は「職員室考現学」を提案します。最初は、恐々参加していた先生たちも次第に増えて、最後には校長までが参加し、それぞれの思いを共有したものです。また、クラスを担任していなかった私は、学校内にスペースを確保、2年生の希望者は誰でも学習できる学校内塾「たんたんプリント」を開きました。
 
④いつまで続くかなあ・・
   (退職後から現在)
 2012年3月に35年勤めた教員を退職します。退職後も校長と交渉して学校内塾「たんたんプリント」を継続し、合わせて理科の授業をサポートする理科支援員をやることにしました。しかし校長や教務主任が変わっていくと、この特異な塾の存在は煙たがられるようになり、結局、追い出されるように終了してしまいます。生徒や保護者の希望もあり、代わりに私設体育館付属の教室を借りて個人として学習塾「たんたん学習会」を開きます。
 現在、「たんたん学習会」の他に、小学校の理科支援員、体育館での空手指導と稽古、日本色覚差別撤廃の会の活動、夏休みの炎天下に行う街道歩き(東日本大震災の被災地歩き)などを行っていますが、年々、体力気力の衰えも感じます。今の活動はいつまで続くのかなあ。
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 感想
井上さんの感想をご紹介します。
「井上清三という生き方」発表しての感想
 今回、多田図尋常小学校の授業「井上清三という生き方3」で12年前に退職した小学校現役教師時代を大雑把に紹介した。大きく分けて転機は4回。その4回の紹介だけで、中身についての話はなんかうわっつらだけだったような気がする。きっと身体は覚えているんだろうけど、私の記憶脳と編集脳は期待通りに働かない。だから「問い」が必要なんだろう。「問い」から私の身体が反応して、身体の中にしまい込んだリアルな記憶が出てくるのかも。なんか今回は、この「問い」を発生させないように私が「枠」を作り過ぎたのかも。まっ、40分には終わったけどね。校長に「小学校どうでした?」の質問には、「おもしろかった」の言葉が出た。12年たつとなんでもおもしろく感じるのかも。
 
校長(中城)の感想
  井上先生はパワーポイントを駆使して丁寧に準備をされていました。が、本番ではそれに引っ張られて、井上さんならではの面白さ(答えに窮して立ち往生するなど)が薄まったように感じました。事前に資料を作ることで頭が整理されますが、本番ではなるべく資料を使用しない方が予想外の展開も期待できるし面白くなるかも知れないと思いました。