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873 多田図尋常小学校の人々「いろいろ考えさせられました」


●2限目 社会
「街道歩きから被災地歩きに」
 〜20年、炎天下を歩き続けて見えてきたもの〜
      井上清三さん(元小学校教師/空手師範)
 1998年の夏休み前に当時、小学校教師だった井上清三さんから突然「中城さん、川崎から京都まで400キロを一緒に歩きませんか」とのお誘い。びびった私は「井上さんが生還したら来年ね」と断ったのですが、生還した井上さんに断れず、翌年から私も15年近く、部分参加する羽目になりました。東海道から「奥の細道」の中山道を踏破して、2011年から東日本大震災の被災地を歩いてきました。諸事情でしばらく休止していたのですが、数年ぶりに今夏から再開。これを機に井上さんに怒涛の20年を振り返っていただくことになりました。(校長:中城)
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街道歩きは格好いい
 私は小学校の教師をしていた1998年から夏休みの自宅研修を利用して、東海道(川崎京都)を徒歩で走破という企画を始めました。また参加していた色覚差別撤廃の会のアピールも兼ねて、ゼッケンを作ったり、コンビニでビラをコピーして駅前で配ったりしました。この企画を始めた動機ははっきりと覚えていないのですが、当時テレビで「そうだ京都に行こう」という宣伝が流れていたし、自分としては修行僧のようで格好いいと思ったのでしょう。実は少し前から徒歩練習をして、これならいけると思ったのです。中城さんにも声をかけたのですが、体よく断られ、かえって気合いが入りました。勇ましく川崎をスタートしたのはいいのですが、藤沢まできたところで足が豆だらけになりました。徒歩旅行を甘くみて裸足にサンダルで来てしまったのです。コンビニで針や消毒薬を買い豆の手当てをして、スニーカーと靴下も購入しました。初体験のため自分が1日でどれだけ歩けるかもわからず、宿泊も一切予約なしでした。とにかく朝から歩いて夕方になってから電話で旅館を探すような状況でしたが、なんとかなるものです。全行程480キロを17日間で満身創痍で踏破しました。この壮大な試みで、私は、かってない充実感、達成感を得ることができたのでした。
中城さんと弥次喜多道中
 そこで翌年、中城さんに再度声がけをすると、中城さんは渋々と条件付きで部分参加することになりました。その条件は①へこたれる。根をあげる。②疲れたらすぐ休む。③嫌になったらいつでもタクシーかバスで離脱する。まあ空手師範の私とは体力気力も違う中城さんです。ぜひ、この体験をして欲しかったので条件を受け入れました。私は昨年の体験から荷物を軽くしようと重さを測ってパッキングしてきたのですが、小柄な中城さんの荷物がやたら重そう。慎重派の中城さんは着替えなど、やたらに荷物が多いのです。歩き始める前に入念に準備運動をするし、やたらに水分補給してトイレに行くし、おまけに私が「よしっ、行くぞっ」と気合を入れるたびに情けない声で「とほほ」と返してくるのです。気がつくと徒歩30分ごとにある、ほとんどのコンビニに寄る羽目になり、そこで冷たいドリンクを購入し、店内の冷房で休憩。中城さんは「コンビニ全店制覇だ」といきまきますが、次第に予定時間も伸びていきます。50キロ行程の時は、予定を大幅にすぎ、ホテルのチェックインに間に合わなくなり、夜9時まで必死に走り続けたこともありました。
 そんな弥次喜多道中のような2年目でしたが、1年目と大きく変わったことがあります。それは京都に到達して時に達成感をまるでなかったことです。そのかわり、まだまだいくらでも歩き続けられる感覚がありました。ま、昔の商人は日常で東海道を行き来しているわけで、いちいち感動するわけもないのですね。
 非力の中城さんと歩いて「これなら誰でも歩ける」と確信を得て、翌年は、さらに広く友人知人、職場の同僚に声がけをして、夏休み炎天下徒歩旅行が始まりました。ほとんどの方は部分参加だったので場所によってメンバーが変わり、そのたびに雰囲気もがらっと変わるのです。とにかく歩きながら話すのはとても楽しい体験でした。徒歩の移動ミーティングは、リラックスして話しやすいのか、体験談、人生論までいろいろ話したなあ。
 

 

 またこんなこともありました。箱根の石畳を躓きながらくだっていた中城さんが、突然「江戸の飛脚は足元なんか見ないはず」と視線を空に移して歩き始め、最後は目を瞑って走るのです。脳を経由しない方が反応が早いそうで、実際ほとんど躓かないのが不思議でした。

 また、ある年にスタート1週間後に想定外の足の痛みで旅行中止を考えていた私に、途中合流した中城さんが「井上さんは、自分の足を疑っているのだと思います。まず足を信用して痛い部分にしっかり重さをかけて歩いてみましょう」とわけの分からないことを言い出します。はるばる三島まできた途端、中止と言われた中城さんの必死の提案に、私もダメもとでやってみました。すると不思議。なんと3歩で痛みが治ったのです。ホント、徒歩旅行では不思議なことが起こります。
 さらに徒歩旅行の大きな目的に「色覚差別撤廃」のアピールがありましたが、同行した中城さんから「井上さんはなぜこのアピールをしているのですか」と何度も問い詰められたのです。その結果、私の本音は差別撤廃のアピールそのものではなく、アピールを通して注目して欲しいことが明らかになってしまいました。気がつくと胸のゼッケンが次第に小さくなり、しまいにはアピール自体がなくなり・・。とほほ。
街道歩きから被災地歩きへ
 数年間、東海道を歩くと飽きてしまい、中山道を回ったり、俳句を作りつつ奥の細道を私の田舎の福島を経由で徒歩旅行を楽しんだりもしました。ところが2011年3月に東日本大震災が起きました。中城さんから「井上さんの故郷は福島だし、今年は被害を受けた大震災の跡を歩きましょう」と提案を受けます。調べると現地は交通路も遮断され宿泊もままならない状況で、迷ったのですが、残った鉄道やバス路線も利用しながら行くことにしました。大震災の状況はテレビやネットで見ていたのですが、実際に現地での体験はまるで違います。何日も何日も歩き続けても延々と瓦礫が続くだけ。そんな情景が本当に衝撃でした。それでも道で出会ったお年寄りとも話し込んで、数多くの体験を伺うことができました。また私の中学の同級生にも連絡をとり、久しぶりに訪ねました。そんなことで福島、宮城、岩手、青森と各地の被災地を回りました。諸事情でここ数年は徒歩旅行はお休みでしたが、今年はかって訪れた数カ所を再び訪ねてみました。新しく変わったところと、放射能の規制でほとんど手付かずのところの差が大きかったのが印象的でした。この20年を振り返ると「おもしろかった」の一言ですね。ありがとうございました。
井上さんの感想です。
●「歩きの報告」の感想です。1998年からの「歩き」、「歩いてみて思ったことは?」なんて聞かれて思わず「おもしろかった」と答えたけど、今、改めて思ったのは「いろいろ考えさせられた」の一言がいいかな。歩かなかったら、そんなに考えないもんね。なんか自分でやろうとしてやると、いろいろ問題が出てきて考えさせられる・・・それが一番の感想かな。
鈴木智美さんの感想です。
 私も小学生の子どもと箱根から川崎まで街道歩きをしたことがあり、お知らせメールの「街道歩き」が目に留まり参加しました。
 井上さんの街道歩きと被災地歩きのお話、大変興味深く拝聴いたしました。1998年から継続していらっしゃるということと、「歩く」ことに色覚差別撤廃のメッセージをのせていらっしゃるということをお聞きして井上さんの「歩く」ことへの思いの深さを感じました。また、授業の最後に、井上さんから、これまでの街道歩き・被災地歩きを通して実感したこととして「道はどこまでも続いているんだということです」というお言葉がありましたが、続いている道の上に人があり、人もまた道を通じて繋がっているということに、あらためて意識を巡らせることができました。