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879 多田図尋常小学校の人々「次回はカラスとパヴァロッティとお届けします」


●3限目 音楽
 「Coffee Break Music In Tadaz」
 本日のバリスタの気まぐれブレンド

「ワーグナーといえば

                         …な方」

 クナッパーツブッシュと
                             ショルティ

 T.eng氏(音響エンジニア

  /趣味はオーディオ、パソコン製作、鉄道 etc.)

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「ニーベルングの指環」や「トリスタンとイゾルデ」など数多くの劇場音楽を手掛けてきたワーグナー。その作品はいずれも重厚長大で生半可な指揮者ではとても扱えない代物でもあります。そんなワーグナーで名をはせた指揮者としてよく知られている存在が二人。一人はナチスドイツ時代にドイツにいながらワーグナーを指揮し、それでいてナチスと戦ったハンス・クナッパーツブッシュ。もう一人は世界初のニーベルングの指環全曲録音を成し遂げたサー・ゲオルグ・ショルティ。片やドイツ語的な節回しで歌い、片や合理的なダイナミクスを刻む…と演奏スタイルは正反対ながらも重厚長大なワーグナーをどうやって聴かせていくのかに迫っていきます。

反骨のワーグナー指揮者

       クナッパーツブッシュ
 クナッパーツブッシュは1888年にドイツのヴッパータールで生まれます。幼い時からオーケストラに親しみ音楽的な才能に溢れていましたが、両親が音楽の道に進むことを認めず、ボン大学に入って哲学を学びました。卒業後、ケルン音楽院で学びましたが、相性があわず成績は良くありませんでした。1909年からライプツィヒで音楽活動を始め、1912年までバイロイト音楽祭の芸術監督のジークフリート・ワーグナーと、指揮者のハンス・リヒターの補佐を務め、ワーグナーの音楽を叩き込まれました。リヒャルト・ワーグナー没後50周年に作家トーマス・マンが「リヒャルト・ワーグナーの苦悩と偉大さ」という講演で、ワーグナーへの敬意とともに批判をしました。それに対してクナッパーツブッシュは「リヒャルト・ワーグナーの都市ミュンヘンへの抗議」という論文で徹底的に反論しました。彼はドイツ民族主義者ですが、ナチズムには批判的で、コンサートのオープニングで求められているナチスの党歌の演奏や、ナチスの旗の掲揚も拒否しました。ヒトラーはクナッパーツブッシュの演奏は好まず、彼を軍楽隊長と呼び捨てていました。1936年にはミュンヘン歌劇場の監督をクビになったものの、他に適任者がおらずすぐに復帰します。ドイツに嫌気がさしたクナッパーツブッシュはオーストリアに活動を移し、ウィーン国立歌劇場の指揮などで長く関わり続けました。1944年6月30日に歌劇場が爆撃される時にも、爆撃の数時間前までワーグナーの「神々の黄昏」を指揮をしています。ナチス政府と喧嘩していたクナッパーツブッシュですが、ヒトラー誕生祝賀コンサートに参加したりしたこともあり、戦後は1946年まで演奏を禁止されてしまいます。その間はスイスに亡命していた若いユダヤ人音楽家のゲオルク・ショルティがミュンヘン歌劇場の総監督になりました。1947年クナッパーツブッシュはバンベルク交響楽団で活動を再開し、やがて1964年まで毎年バイロイト音楽祭に出演を続けます。ただ1953年は予算不足を逆手にとった「新バイロイト様式」の演出が気に入らず出演を辞退しました。1964年に転倒して股関節を骨折、1965年に77歳で死去します。
 

クナッパーツブッシュはベートーベン、ブルックナー、ブラームス、リヒャルト・シュトラウスなどドイツ派を中心として幅広いレパートリーを持っていますが、彼の壮大な世界観に裏付けられたワーグナーの解釈はすごいものでした。戦後の作品、現代音楽などは、あまり好みませんでした。クナッパーツブッシュは練習が嫌いでぶっつけ本番を好みました。どんなトラブルにも対応できる力を持っており、楽団員を信用していたのですが、一方で力量がない相手には容赦ない言葉を浴びせる面もあったようです。またクナッパーツブッシュはスタジオ録音を好まず、ドーランの匂いのする劇場でのライブ至上主義でした。彼にとってスタジオ録音した良い部分をつなぎ合わせるなど許し難いことだったのでしょう。


「ニーベルングの指環」全曲録音を

  成し遂げたゲオルグ・ショルティ
 さてもう一人のゲオルク・ショルティは1912年にハンガリーのブタペストで、ユダヤ系のシュテルン家の次男として生まれます。父親がハンガリーの民族主義の高まりを感じて、名前をシュテルンからハンガリー風のショルティに変えてしまいます。シュルティは6歳でピアノを始め、リスト音楽院でピアノ、作曲、指揮などの英才教育を受けます。卒業後、ブタペストの国立歌劇場で歌手の練習のためのピアニストとなり、チェレスタ、チェンバロの演奏も手がけながらオペラを学びます。1936年にザルツブルグ音楽祭のリハーサルのためのピアニストの欠員があり、代わって演奏したショルティがトスカニーニの目にとまり、これをきっかけにトスカニーニの助手を務めることになります。1937年には「魔笛」を担当します。1938年にはブタペスト歌劇場で「フィガロの結婚」で、ぶっつけ本番ながら指揮者を務めて、これがプロデビューとなります。1942年にジュネーブ国際コンクールのピアノ部門で優勝、ピアニストとしてもデビューします。1946年にはトスカニーニとエーリヒ・クライバーの援助もあり、クナッパーツブッシュの代わりにミュンヘンのバイエルン国立歌劇場の音楽監督に抜擢されます。1951年にザルツブルグ音楽祭にデビューし、翌年、フランクフルト歌劇場の音楽監督に就任します。1953年にはサンフランシスコ歌劇場でアメリカでデビュー、1958年からウィーン・フィルハーモニー管弦楽団と「ニーベルングの指環」全曲をスタジオ録音を開始します。1959年にはイギリスのコヴェントガーデン歌劇場で「ばらの騎士」で成功を収め音楽監督に就任します。1969年にはフリッツ・ライナーによる第一黄金期以降、停滞していたシカゴ交響楽団の音楽監督に就任して数年で見事に立て直し世界的な評価も得るようになり、第二黄金期を迎えます。市民から「シカゴにギャングの街からオーケストラの街になった」と愛されます。1972年にはイギリス国籍をとって帰化、ナイトの称号を受けます。1997年に心筋梗塞で死去し、尊敬するバルトークの墓の隣に埋葬されます。
 彼の演奏はドライでメリハリのある音作りで、現代音楽でも高い評価を受けました。また、大監督フランシス・フォード・コッポラの「地獄の黙示録」でも、ショルティの演奏したワーグナーの「ワルキューレの騎行」がオープニングの曲に採用されました。

鈴木智美さんの感想です。
毎度のことながら音楽に疎い私は今回の2人の指揮者の名前も初めて耳にいたしましたが、音楽性の違いのみならず、指揮者の生きた時代背景もとても興味深かったです。

校長(中城)の感想です。

 ワーグナーというと堅苦しいイメージしかなかったのですが、どれも一度は聴いたことがある曲ばかりで、私たちの生活の中にしっかりと入り込んでいたんですね。


T.eng氏の感想です。
次回はカラスとパヴァロッティとお届けします