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888 多田図尋常小学校の人々「次はシャリアピンとフィッシャー=ディースカウを」


●2限目 音楽
 「Coffee Break Music In Tadaz」
  本日のバリスタの気まぐれブレンド

「日本指揮者の巨匠」

  小澤征爾と朝比奈隆

 T.eng氏(音響エンジニア

/趣味:オーディオ、PC製作、鉄道etc.)

 

 日本生まれの演奏家たちも世界に名が知られるようになりましたが、その先駆けは「世界のオザワ」こと小澤征爾。彼の活躍は国際化が一気に進む戦後の日本、そしてクラシック界の中核そのもの。2002年にニューイヤーコンサートに日本人初の指揮者として選ばれたのは日本クラシック界を国際基準に引き上げた功績への回答でもあったのです。小澤に並ぶ第1世代の世界的指揮者を挙げるならば朝比奈隆。彼と大阪フィルが演奏したブルックナーは日本のブルックナー解釈の決定盤として揺るがない名盤。ブルックナー以外にもベートーヴェンやブラームスを指揮する朝比奈の風格は、揺るぎない世界観を見せてくれます。二人の日本の世界的指揮者のパイオニアの半生に迫りましょう。

 

ニューイヤーコンサートの          日本人初の指揮者
 小澤征爾は1935年に中国の満州の奉天で生まれました。1941年に母と兄と日本に帰国。兄からアコーディオンとピアノを習い、その才能に気がついた両親は横浜市白楽の親類からピアノを譲り受け、立川までリアカーで運びました。中学で始めたラグビーの試合で大怪我をしてピアニストを断念。1952年に桐朋女子高校音楽高校に入学するも齊藤秀雄のスパルタ授業を受け、ストレスで自宅のガラスを割って大怪我をしてしまいます。1955年には齊藤が教授を務める桐朋学園短大に進学して1957年に卒業。卒業後は群馬交響楽団で指揮をしたり、日本フィルで渡邉暁雄の下で副指揮者になります。
 1958年にはフランス政府給付留学生に不合格でしたが、1959年に単身でフランスに渡り、1959年にはブザンソン国際指揮者コンクール第1位、カラヤン指揮者コンクール第1位となり、カラヤンから指導を受けます。1960年にはアメリカのボストンのバークシャー音楽祭でクーセヴィッキー賞を受賞し、1961年にはニューヨーク・フィルハーモニック副指揮者となって指揮者のバーンスタインに師事します。1961年にNHK交響楽団に招かれますが、感情的な軋轢からボイコットされ辞任し渡米します。これが有名なN響事件です。原因は小澤の遅刻など諸説ありますが、1995年にN響と再び共演するまで32年かかっています。
 1964年にはシカゴ交響楽団の急病の指揮者に代わり招かれ演奏しますが大成功を納め、小澤征爾の名前が世界に知られます。また1964年からはトロント交響楽団の指揮者に就任、1966年にはウイーン・フィルハーモニー管弦楽団を指揮します。さらに1970年にはタングルウッド音楽祭の音楽監督と、サンフランシスコ交響楽団の音楽監督に就任します。1973年からはボストン交響楽団の音楽監督にも就任し、2002年までその地位にいました。1984年には恩師の齋藤秀雄没後10年の齋藤秀雄メモリアルコンサートを開き、これがサイトウ・キネン・オーケストラ結成に繋がります。この齋藤秀雄の弟子たちが結集したサイトウ・キネン・オーケストラも評価が高く、日本の音楽を世界に広く紹介しました。2002年には日本人で初めてウイーン・フィル ニューイヤーコンサートを指揮して世界同時中継され、このCDが爆発的に売れました。近年はガンや腰痛など病気と向き合いながら、今年88歳です。

 

 

 若かった小澤を、指揮者のユージン・オーマンディは、カラヤンを継ぐホストカラヤンとして、クライディオ・アバド、ズービン・メータ、ロリン・マゼール、イシュトヴァン・ケルテスとともに五指に数えていましたが、予想通り、世界中を旅して、ベートーベン、ブラームス、シューベルトなどを指揮して回る世界的な指揮者となり、その実績が2002年のニューイヤーコンサートで証明されたのです。武満徹とも仲がよく、彼の作品を演奏して世界に広めました。

日本のブルックナー
     解釈の決定盤
 朝比奈隆は1908年東京の牛込で小島家に生まれましたが朝比奈家の養子となります。虚弱体質のため神奈川県国府津の漁村に預けられ、そこで尋常小学校に入学しますが、小3で東京の麻布尋常小学校、さらに中学受験のため東京府立青山師範学校付属小学校に転入します。そこで受験に臨みましたが、有名中学に軒並み落ちて裏口で私立高千穂中学に入学。入学後、旧制東京高等学校に編入試験で転入します。やがて1922年に養父、1925年に養母をなくし小島家に戻ることになります。朝比奈家の祖母より中古のヴァイオリンを買ってもらったことで音楽に関心を持つようになり、最初は東京高校の音楽教師、次に橋本国彦からヴァイオリンを習いました。
 高校卒業後は京都帝国大学法学部に進み、京大のオーケストラに参加し、音楽部指導者のエマヌエル・メッテルの指導を受けます。京大卒業後は阪急電鉄に入社し、並行して大阪弦楽四重奏団でヴァイオリンを演奏。1933年に京大に再入学し1936年に大阪フィルを指揮したのがデビューとなります。さらに1940年に新交響楽団でチャイコフスキーの交響曲第5番の指揮をしますが、これがプロデビューとなります。1943年に中国に渡り上海交響楽団で指揮をして、1945年には満州全土で演奏旅行を敢行、ついには妻子を呼び寄せて移住します。終戦後は支持者に匿われてハルビンに滞在したのち1946年に神戸に引き上げることができました。
 引き上げてからは大阪音楽学校に勤め、1947年に関西交響楽団を結成して、関西オペラ協会も立ち上げます。1950年代にはベルリン・フィルハーモニー管弦楽団、北ドイツ放送交響楽団などに招かれるようになります。1960年に関西交響楽団が大阪フィルハーモニー交響楽団に改称され常任指揮者となります。1973年に大阪フィルの東京公演で取り上げたブルックナーの交響曲第5番は大好評でした。それを聴いていたライブハウス「渋谷ジャンジャン」のオーナー高嶋進が思い立ち大阪フィルと朝比奈とでブルックナーの交響曲全集を作って発売すると大評判となり、レコードの録音やオーケストラから演奏のオファーが殺到するようになります。さらにベートーベンやチャイコフスキーの全集も作ります。2001年に最後まで現役で93歳で死亡しました。
 若い時は朝比奈の演奏レパートリーは広かったのですが、次第にベートーベン、ブラームス、ブルックナー、チャイコフスキーなどを中心に絞られるようになり、ベートーベン全集は7回も録音しています。オペラ公演も多く、歌詞の翻訳も行い、ワーグナーの「ニーベルングの指輪」は全日本人で演奏しました。録音はスタジオ録音よりライブ録音が多く様々なレーベルから出されています。50年以上、大阪フィルの指導にあたり、93歳まで現役で日本の音楽全体の底上げをした功績は大きいものがあります。
校長の感想です
 「小澤征爾」で印象に残っているのは入江美樹と結婚したことと、腰痛を押してサイトウ・キネン・オーケストラを指揮している姿くらいでした。「朝比奈隆」に至っては名前だけ。日本にも国際的にこんなに高い評価を受けている指揮者が二人もいるなんて知りませんでした。
T.eng氏の感想です
「次回はシャリアピンとフィッシャー=ディースカウを取り上げます」