「Coffee Break Music In Tadaz」
本日のバリスタの気まぐれブレンド
「日本指揮者の巨匠」
〜小澤征爾と朝比奈隆〜
T.eng氏(音響エンジニア
/趣味:オーディオ、PC製作、鉄道etc.)
日本生まれの演奏家たちも世界に名が知られるようになりましたが、その先駆けは「世界のオザワ」こと小澤征爾。彼の活躍は国際化が一気に進む戦後の日本、そしてクラシック界の中核そのもの。2002年にニューイヤーコンサートに日本人初の指揮者として選ばれたのは日本クラシック界を国際基準に引き上げた功績への回答でもあったのです。小澤に並ぶ第1世代の世界的指揮者を挙げるならば朝比奈隆。彼と大阪フィルが演奏したブルックナーは日本のブルックナー解釈の決定盤として揺るがない名盤。ブルックナー以外にもベートーヴェンやブラームスを指揮する朝比奈の風格は、揺るぎない世界観を見せてくれます。二人の日本の世界的指揮者のパイオニアの半生に迫りましょう。
ニューイヤーコンサートの 日本人初の指揮者
小澤征爾は1935年に中国の満州の奉天で生まれました。1941年に母と兄と日本に帰国。兄からアコーディオンとピアノを習い、その才能に気がついた両親は横浜市白楽の親類からピアノを譲り受け、立川までリアカーで運びました。中学で始めたラグビーの試合で大怪我をしてピアニストを断念。1952年に桐朋女子高校音楽高校に入学するも齊藤秀雄のスパルタ授業を受け、ストレスで自宅のガラスを割って大怪我をしてしまいます。1955年には齊藤が教授を務める桐朋学園短大に進学して1957年に卒業。卒業後は群馬交響楽団で指揮をしたり、日本フィルで渡邉暁雄の下で副指揮者になります。
1958年にはフランス政府給付留学生に不合格でしたが、1959年に単身でフランスに渡り、1959年にはブザンソン国際指揮者コンクール第1位、カラヤン指揮者コンクール第1位となり、カラヤンから指導を受けます。1960年にはアメリカのボストンのバークシャー音楽祭でクーセヴィッキー賞を受賞し、1961年にはニューヨーク・フィルハーモニック副指揮者となって指揮者のバーンスタインに師事します。1961年にNHK交響楽団に招かれますが、感情的な軋轢からボイコットされ辞任し渡米します。これが有名なN響事件です。原因は小澤の遅刻など諸説ありますが、1995年にN響と再び共演するまで32年かかっています。
1964年にはシカゴ交響楽団の急病の指揮者に代わり招かれ演奏しますが大成功を納め、小澤征爾の名前が世界に知られます。また1964年からはトロント交響楽団の指揮者に就任、1966年にはウイーン・フィルハーモニー管弦楽団を指揮します。さらに1970年にはタングルウッド音楽祭の音楽監督と、サンフランシスコ交響楽団の音楽監督に就任します。1973年からはボストン交響楽団の音楽監督にも就任し、2002年までその地位にいました。1984年には恩師の齋藤秀雄没後10年の齋藤秀雄メモリアルコンサートを開き、これがサイトウ・キネン・オーケストラ結成に繋がります。この齋藤秀雄の弟子たちが結集したサイトウ・キネン・オーケストラも評価が高く、日本の音楽を世界に広く紹介しました。2002年には日本人で初めてウイーン・フィル ニューイヤーコンサートを指揮して世界同時中継され、このCDが爆発的に売れました。近年はガンや腰痛など病気と向き合いながら、今年88歳です。