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892 多田図尋常小学校の人々「次回はイエペスとセゴビアを取り上げます」


●2限目 音楽
 「Coffee Break Music In Tadaz」
 本日のバリスタの気まぐれブレンド

歌う俳優と

    精密なる表現者

〜シャリアピンとフィッシャー=ディースカウ〜

 T.eng氏(音響エンジニア

  趣味:オーディオ、パソコン製作、鉄道 etc.)

 オペラの世界には世界を激変させる存在が往々にして生まれます。今回取り上げるのもそんな二人。一人は帝政ロシアに生まれ「歌う俳優」と評されるほどに重厚な演技と歌唱を披露したバス歌手フョードル・シャリアピン。もう一人は精緻なる表現者としてドイツ・リートの世界の神髄を広め、礎を築いたドイツ・バリトンの匠、ディードリヒ・フィッシャー=ディースカウ。二人に共通する点は真に迫る表現力。そこに至る文化やアプローチは違えども語り継がれるにふさわしい艶やかなる歌声をお楽しみください。

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「歌う俳優」シャリアピン
 フョードル・シャリアピンは1873年にロシアのカザンに生まれます。少年時代は靴屋、旋盤工、筆耕などで働き17歳で小歌劇団で歌い始め、1892年から1893年までトリビシで声楽を学び、オペラ歌手としても活動を始めます。1894年からサンクトペテルブルグのマリインスキー劇場に所属し、その後、モスクワでマモントフ私立歌劇場、ボリショイ劇場に招かれ、そこでラフマニノフと出会って生涯の友となります。ボリショイではロシアオペラの主役を演じて高く評価され不動の地位を得ます。1901年より海外公演も行い、1901年と1904年にはミラノ・スカラ座に出演しました。1907年1908年にはメトロポリタン歌劇場に出演するも評価は低かったのですが、後の1921年の再演では大成功でした。1907年、1908年、1909年、1912年にはパリ、1913年にはロンドンでリサイタルを開き成功しましたが、その時は多くのロシア民謡も歌いました。1917年にロシア革命が起き、当初革命政府から偉大な芸術家と遇されるも、不満分子として冷遇されるようになり1921年にパリに亡命し、以来、世界中で公演活動をします。1936年に夫人と令嬢と来日して東京、名古屋、大阪で公演しました。当初、調子が悪く高齢を心配されるも、公演中に調子をあげ、大評判となりました。1938年に65歳でパリに死去して埋葬されますが、1984年にモスクワに改葬されました。
 シャリアピンの代表的な役はムソルグスキーのボリス・ゴドゥノフの主役ですが、重厚で、力に満ち溢れて同時に柔らかさも合わせ持ち、歌本来の姿を表現し、特に心理的な描写が卓越しています。録音はSPレコードも含めて数多く残されており、貴重な映像も残っています。SPレコードからも彼の重厚なロシアオペラが伝わってきます。
 有名なシャリアピン・ステーキの命名の由来ですが、普段から演奏のエネルギーを得るために肉を食べていたシャリアピンは1936年の来日時に歯の状態が悪く、困って宿泊先の帝国ホテルの料理長に相談しました。彼の要望を聞いた料理長は、薄く伸ばした肉を玉ねぎに漬け込むなどして柔らかく焼き上げたステーキを提供しました。シャリアピンは気に入り、そのステーキはシャリアピン・ステーキという名前になりました。
「精密なる表現者」
ディードリヒ・
  フィッシャー=ディースカウ
 1925年にドイツのベルリンで、古典派の学者の父と音楽教師の母の間に三人兄弟の末っ子として生まれました。一人の兄が心身に障害があったため兄を楽しませるために歌を歌いました。16歳から正式な声楽レッスンを受け、1942年にはベルリン音楽院で学び、1943年に空襲下で公の場で歌いました。1944年にドイツ国防軍に入りロシア戦線で馬の世話をし、1944年から45年までボローニャで転戦、兵士たちに歌で楽しませました。ドイツが降伏する3日前に連合軍に捕まり投獄され、そこでコンサートを開き、アメリカ軍に好評で1947年6月まで様々なところで歌わされました。1947年にベルリン音楽院に戻って、バーデンヴァイラーでプロ歌手としてデビューしました。病気になった歌手の代役でドイツレクイエムをリハーサルなしで歌ったこともあります。1947年秋に最初のリサイタルを開きました。実質的なキャリアは1948年、学生の時に米軍の放送局で「冬の旅」を歌った時からです。

 

ベルリン市立歌劇場で首席歌手となり、ヴェルディの「ドン・カルロ」を歌ってオペラのデビューをしました。1949年にはブラームスの「4つの厳粛な歌」を録音し、ウィーンとミュンヘンの歌劇場にも出演します。1951年にはザルツブルク音楽祭でフルトヴェングラーと共演し、1954年にはバイロイト音楽祭にて「タンホイザー」でデビューしました。オペラ歌手としてはベルリンとバイエルン国立歌劇場で活動を続け、ウィーン国立歌劇場、ロンドンのコヴェント・ガーデン、エディンバラの音楽祭などでも演奏しました。録音は主にEMIで多数行いましたが、1951年に有名な伴奏者ジェラルド・ムーアと録音したのが、シューベルトの歌曲集「美しき水車小屋の娘」です。1978年にはオペラから引退しましたが、ドイツリートやコンサートでは1992年まで歌いました。彼は歌手だけでなく指揮者を務めたこともあります。2012年に86歳で亡くなりました。

 彼の歌唱は、軽やかな中に要所はきっちり押さえており完璧です。また歌詞と音楽を対等なパートナーとして提示するその演奏は歌曲の基準を確立しました。シューベルトの歌曲でも高い評価を得たフィッシャー=ディースカウですが、彼のライバルは彼自身と言われるくらいでした。常に新しい基準、領域を探り、予期せぬ感情を表現したのです。彼のレパートリーは広く、歌えるものは何でも歌いました。バッハの宗教曲、ワーグナー、シューベルトの歌曲、イタリアオペラ、フランス歌曲、アメリカ歌曲までと、まさに世界を歌いまくったと言えると思います。シューベルトの「魔王」を聴くとわかりますが、ナレーター、子ども、父親、魔王の四人の登場人物をこれほど巧みに歌い分けられるのは彼以外にいません。世界一の歌唱力を持ち、デビュー以来、多くのコンサートを行ってきましたが、常にチケットは即完売です。
原田靖子さんの感想
 音楽の授業がとても良かったです。私は最近、声楽を始め、時間があると歌曲を聴いたり、歌ったり楽譜を読んだりしていますが、今日の音楽の時間はとても楽しく最高でした。次の音楽も楽しみです。

 

校長の感想
 中学の音楽でシューベルトの「魔王」を聴かされたことがありましたが、正直、「長い、早く終わらないかな」と我慢して聴いていました。ところが今回、「魔王」を歌うフィッシャー=ディースカウを動画で見ると本当に表情豊かに歌い、歌詞の内容や役は理解できないものの、何かが伝わってきたように気がしてきました。後日、T.eng氏より歌詞を解説するwebサイトを教えていただきました。それを読んで高熱で苦しむ子どもを抱えて医者の元に急ぐ父親の姿が浮かんできました。それをこんなふうにリアルな歌で表現するなんて、ただただすごいの一言です。また竹の針を通して聞こえてくるSP盤のシャリアピンでしたが、確かにロシアっぽい力強さを感じました。ステーキの名前しか知らずにごめんなさい。

 

T.eng氏の感想
次回はセゴビアとイエペスを取り上げます