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908 多田図尋常小学校の人々 「次回はクレンペラーとチェリビダッケです」


●3限目 音楽
 「Coffee Break Music In Tadaz」
 本日のバリスタの気まぐれブレンド
 現代音楽の巨匠
       バルトークとブーレーズ
   T.eng氏(音響エンジニア
      /趣味はオーディオ、パソコン製作、鉄道 etc.
 
 クラシック音楽というジャンルは16世紀から現代にいたるまで引き継がれてきている存在。当然20世紀生まれの名作も多数存在します。今回取り上げるのはその中でも「現代音楽」寄りの作曲家を二人。一人はハンガリーに生まれ、民族色と当時最新の音楽理論を融合させて20世紀前半の音楽シーンに一石を投じたベラ・バルトーク。もう一人はフランスに生まれ20世紀の音楽と自身の作品を通じて現代音楽の在り方を問い続けたピエール・ブーレーズ。音楽は何もバッハやベートーヴェンやモーツァルトの時代ではないということを知ることでしょう。
 
現代音楽とは
 現代音楽の概念は色々あり、20世紀以降のクラシック音楽で第二次世界後を現代音楽として、それ以前を近代音楽とする説もあります。しかし大戦前でもシェーンベルグなど不協和音を使う新ウィーン楽派や、バルトーク、ヴァレーズなども現代音楽に入れることもあります。ブーレーズはドビュッシーの「牧神の午後への前奏曲」からとしています。また現代音楽は「2001年宇宙の旅」など映画音楽やゲームソフトにも使われており映像との親和性が極めて高いと言えます。
民族色と最新音楽理論を
     融合させたベラ・バルトーク
 1881年にルーマニアで農学校校長の父とピアノ教師の母のもとに生まれたバルトークは、3歳でピアノに合わせて太鼓で遊び、早くから音楽教育を受けていました。早くして父が亡くなり母はウクライナに引っ越しピアノ教師をしながら転々とします。バルトークは9歳でピアノで作曲、10歳で舞台に立っていましたが、母親は普通の教育を望んでいました。1893年に作曲家ラスローの指導を受け、ポジョ二に引っ越しギムナジウムに入ります。1898年にはウィーン音楽院から入学許可を得るも、音楽家ドホナーニに勧められブタペスト王立音楽院に入学しました。1902年にリヒャルト・シュトラウスの「ツァラトゥストラはかく語りき」と出会い開眼して前衛音楽の道に進みますが、1905年にパリのルビンシュタイン音楽コンクールにピアノと作曲部門で参加、作曲では入賞ではなく奨励賞にとどまり、ピアノでも2位に終わりピアニストの夢も萎んでしまいます。(1位はバックハウス)1905年には作曲家で民族音楽学者のコダーイ・ゾルターンと出会い、1907年にはブタペスト音楽院でピアノの教授になり、同時にハンガリーの民族音楽の採集を続けていきます。1911年にはオペラ「青ひげ公の城」を作りハンガリー芸術委員会に出すも演奏禁止となってしまいます。1923年には「舞踏組曲」、1926年に「ピアノ協奏曲第1番」、1927年には「弦楽四重奏曲第3番」「弦楽四重奏曲第4番」を作曲します。1929年からアメリカに演奏旅行に行き、ヨゼフ・シゲティ、パブロ・カザルスとも共演し、1939年には「弦楽四重奏曲第6番」を作曲します。ナチスが台頭して第二次世界大戦が始まり、母親の死去もありアメリカに移住。しかし相性があわず、ひたすら研究に没頭していきます。やがて体調を崩して1943年には重症化し入院となって苦しい状況に追い込まれます。友人のフリッツ・ライナーが、ボストン交響楽団の指揮者に働きかけて、バルトークに作曲を依頼させたところ、すごい勢いで「管弦楽のための協奏曲」を作り、意欲を取り戻し病状も少し改善しました。

 

「ピアノ協奏曲第3番」に取り掛かっていた1945年に64歳で死亡し断筆となります。病気は白血病でした。この作品は友人の作曲家により補筆され完成します。遺体は「ナチスや共産主義が残っている間は祖国に埋葬するな」という遺言によりニューヨーク州に埋葬され、ハンガリーの民主化が進んだ1988年になってからブタペストに埋葬されました。

 若い頃のバルトークはベートーヴェンに憧れて、ドイツ・オーストリア音楽の影響を受けていますが、その後のハンガリーの民族音楽の採集と科学的分析を通して自分の中に取り入れ、旋律やリズム、さらには曲の構造や形式まで、この二つの音楽のバランスをとりながら常に新しい音楽を作り出していきました。チェコの作曲家レオシュ・ヤナーチェクと同じく古典と現代の音楽を集合させたカオス状態の音楽は新古典主義と言えます。特に各種「弦楽四重奏曲」は弦楽四重奏団の主要レパートリーとさえ言えます。
現代音楽の在り方を問い続けた
           ピエール・ブーレーズ
 1925年フランスのモンブリゾンで生まれ、6歳からピアノレッスンを受けて、1943年にパリ音楽院に入学し、メシアンから作曲(和声、対位法)、レイボビッツに12音技法を学びます。1945年には電子音楽にも取り組み、プーランクを初演、さらに婚礼カンタータを作ります。1948年にはベートーヴェンをベースにしたピアノ曲を作曲、1954年にシャンゼリーゼで行われたフランスの国営放送でのコンサートで急病の演奏者の代演で高い評価を得、さらに「春の祭典」の音楽解釈でも一石を投じます。1966年にはバイロイト音楽祭にデビューしました。1976年にポンピドー国立芸術文化センター内に創設されたフランス国立音楽研究所(IRCAM)の所長となりますが、一部から権力者と批判されたりもしました。2012年に引退して2016年に90歳で亡くなります。
 ハプニングなどを重視する前衛音楽に衝撃を受けたブーレーズは、その研究を進めて作曲や演奏での「管理された偶然性」が大事であるとします。またクラシック音楽でもコンピューターやシンセサイザーなどの電子機器を積極的に取り入れようとします。IRCAMの所長の時にもオーケストラの音を電子的に加工した作品「レポン」を作曲し、その妥協を許さない姿勢は高く評価されました。アメリカの実験音楽家ジョン・ケージとも交流がありました。
雨宮さんの感想
 T.engさんの超マニアックな京急クイズから現代音楽の講義まで、内容の濃さに驚きつつ、どちらも心から愉しく聴講させていただきました。ハイレベルな「バルトークとブーレーズ」解説も T.engさんの語り口に魅了されて聞き入ってしまいました。「キレッキレの」という形容がピッタリの現代音楽講座でした。また受講したいです。
T.eng氏の感想
次回はクレンペラーとチェリビダッケを取り上げます。
校長の感想
 これまでのT.eng氏の音楽の授業の中で、話の内容も曲自体も一番むずかしい授業でした。メモを何度見ても内容は理解できず、曲を聞いても音を楽しむこともできず、これまでの音楽の楽しみを全て拒否されている感じでした。現代音楽は、安易な着地点を拒否するのでしょうか。また私が学生のころ美術関連の雑誌にジョン・ケージの名前がでていましたが、現代音楽の音楽家だったんですね。
T.eng氏の返答
 現代音楽の初見は校長の感想でよいのです。今までと同じでは芸術としてはツマラナイからああなります。ラヴェルの「水の戯れ」も初演の時は賛否両論だったのです。