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910 多田図尋常小学校の人々 「次回はギーゼキングとL・クラウス取り上げます」


1限目 音楽
    「超変人な指揮者」
                     ~クレンペラーとチェリビダッケ~
        T.eng氏(音響エンジニア)
 
  クラシックに限らず音楽家には変人の類が多いですが、それ故常識にとらわれないものの見方で革命を起こすことがしばしばあります。そうした例としてグールドやミケランジェリがいますが指揮者にも当然その手の方々がいっぱいいます。一人はドイツに生まれ、その奇怪な行動と厳格なテンポに基づいた音楽解釈で確固たる地位を確立したオットー・クレンペラー。もう一人はルーマニアに生まれベルリン・フィル指揮以降フリーの指揮者として活躍。録音嫌いとその唯一無二の解釈で他の追随を許さないセルジュ・チェリビダッケ。好き嫌いはともかく、「個性的な指揮者」の中でも彼らの名前は聞けば納得できる二人といってもよさそうです。
厳格なテンポに基づいた
     音楽解釈をしたクレンペラー
 クレンペラーは1885年にポーランドでユダヤ人の両親の元に生まれます。4歳でハンブルグに移住して、母親からピアノを学び始め、さらにフランクフルトのホッホ音楽院に進み、そこからベルリンに移動して、ハンス・プフィッツナーの指導を受けて、作曲と指揮とピアノを学びます。さらに1907年にマーラーの前で交響曲第2番「復活」をピアノ用に編曲して演奏して認められ、マーラーから次のような推薦状を書いてもらいプラハの歌劇場指揮者になることができました。
「グスタフ・マーラーはクレンペラー氏を推薦します。氏はこの若さで卓越した、充分に経験を積んだ優れた音楽家であり、指揮者として世に出ることを望んでいます。私は彼がカイペルマイスターとしての職務を全うできると保証します。また私は彼に関する問い合わせについて、何なりと答える用意があります」
 それからハンブルグ、ストラスブール、ケルン、ヴィースバーデンの歌劇場の指揮者を歴任し、1921年にベルリン・フィルハーモニー管弦楽団でも指揮をして高い評価を受け、その後、ロシアに演奏旅行に出かけ、ニューヨーク交響楽団でアメリカデビューします。1927年に国立歌劇場の音楽監督となり、現代的な新しい演出で評判を呼びました。やがてナチスが台頭して、歌劇場もなくなり、ユダヤ系のクレンペラーは1933年にスイスからアメリカに脱出します。アメリカではピッツバーグ交響楽団の立ち上げにも参加したり、ロスアンゼルス・フィルハーモニックの音楽監督になります。1939年に脳腫瘍により音楽監督も続けられなくなり、躁鬱も悪化、さらに病的な女性好きが高じて、サナトリウムに入院するが、そこを抜け出して警察に逮捕されたこともありました。そんなスキャンダラスな事件で、アメリカでの音楽活動は終わってしまいます。第二次世界大戦終了後にヨーロッパに戻り、1947年にはハンガリー国立劇場の監督になりますが、社会主義政権とぶつかりやめてしまいます。やがて英国EMIのプロデューサーのウォルター・レッグと出会い、1952年にEMIと契約を結びます。レッグが作ったフィルハーモニア管弦楽団はフルトヴェングラー、カラヤンを指揮者に招いていましたが、1955年にカラヤンがベルリン・フィルハーモニーの首席指揮者となり、首席の座が空きます。1959年にクレンペラーが常任指揮者になり合わせて終身録音契約も結びました。1963年にフィルハーモニアが資金不足で突然解散しますが、その後、自主運営でニュー・フィルハーモニア管弦楽団として再出発して、クレンペラーも力強く支援を続け、1973年に亡くなるまで数多くの演奏や録音をしました。
 晩年は体力の衰えもあり、演奏中に居眠りすることも多々あり、ある演奏会でも演奏中に寝てしまったのですが、リハーサルでがっちり曲作りができているオーケストラは揺るぎなく演奏を続け、演奏が終わってからクレンペラーが立ち上がり「どうでしたか、私の演奏に満足しましたか」とにっこりしたそうです。 彼のレパートリーはドイツ古典派から20世紀の作品まで広く、アンサンブルや音色よりも厳格なテンポを抑えることを大切に、曲にテンポを掴んでから演奏します。その音作りは揺るぐことがなく、オペラでもワーグナーの作品に新しい演出を試みてワグネリアンから批判を受けたりもしましたが、見事、新バイロイト様式を作り上げます。今やこれも当たり前となり彼の先見性が伺えます。

 

録音嫌いで、曲の解釈では

他の追随を許さないチェリビダッケ
 もう一人のチェリビダッケは1912年ルーマニアで政治家の息子として生まれ、跡を継ぐことを望まれていました。第一次世界大戦のときにヤシに引っ越します。ヤシはユダヤ文化の中心で、そこでユダヤ文化をしっかりと吸収して育ちました。やがてパリに留学して、1936年にはベルリンに移りフリードリヒ・ヴィルヘルム大学で数学、哲学、ベルリン音楽大学で作曲、指揮などを学びます。
 第二次世界大戦中もベルリンにとどまっていました。終戦後はナチスに気に入れられたフルトヴェングラーなどは演奏禁止など謹慎することになり、フルトヴェングラーを失ったベルリン・フィルハーモニー管弦楽団は暫定指揮者としてロシア人のレオ・ボルヒャルト暫定指揮者に迎えます。が、アメリカ軍の誤射で失ってしまい、チェリビダッケが暫定首席指揮者となります。本格的な指揮をしたことがなかったチェリビダッケは、就任中にバロック、古典派、近現代まで、とてつもない曲を徹底して研究。そして暗譜して指揮をして評判を得ました。フルトヴェングラーを尊敬していたチェリビダッケは、フルトヴェングラーの復活にも大きな働きをします。一方ベルリン・フィルの楽団員からは独裁的なチェリビダッケへの反発があり、チェリビダッケも離れていきます。自分の後任にカラヤンを指名したフルトヴェングラーとも仲が悪くなり、1954年にはベルリン・フィルとも衝突して「この楽団では今後一切指揮をしない」とブチ切れ、以降は1992年にヴァイツベッカー大統領に頼み込まれた時の1回だけしか指揮をしませんでした。チェリビダッケはその後、イタリアのサンタ・チェチーリア国立アカデミー管弦楽団、イタリア放送協会所属のオーケストラで客演、1960年からデンマーク王立管弦楽団、スウェーデン放送交響楽団で活動、1971年南ドイツ放送交響楽団の芸術監督としてレベルアップに貢献しました。1979年にミュンヘン・フィルハーモニー管弦楽団の主席指揮者になりました。1980年には主席トロンボーン奏者のオーディションで選んだ演奏者が女性だと知ると、さまざまな嫌がらせを行い訴えられて敗訴しました。教育にも熱心なチェリビダッケは多くの講習会を行い、演奏会前のリハーサルにも指揮科の学生が自由に出入りできるようにしたりし、3000人に指揮を教えたといいます。1996年に84歳で亡くなりました。
 録音嫌いで、その理由はコンサートホールでのオーケストラの響きは、マイクでは拾えないし、再現もできないとしています。もちろんスタジオ録音もほとんどやりませんでした。録音を積極的に行い多数の名演奏を残したカラヤンやバーンスタインと対照的に、録音がほとんどないチェリビダッケは幻の指揮者と言われています。あまりに録音が少ないため死後に出回った海賊版に業を煮やした遺族の意を受けて、ドイツグラモフォンやEMIがわずかに残された演奏会の録音からCDを出しました。
 また「音楽は『無』であって言葉で語ることはできない。ただ『体験』のみだ」「始めの中に終わりがある」などと考えていました。晩年に演奏テンポが非常に遅くなってきますが、テンポは演奏会場の音の響き、音との対話によって決まってくるもので、楽譜の指示やメトロノームで決まるものではないとしています。例えば普通は80分くらいかけて演奏するブルックナーの交響曲第8番を105分かけて演奏しています。妥協を許さないチェリビダッケはリハーサルでも厳しく、チューニングだけで30分かけることもありました。
小林さんの感想
昨日はありがとうございました。
音楽の時間も楽しく拝聴いたしました。
校長の感想
病気が高じて入院させられたり逮捕されたり、
パワハラで訴えられたり、音楽で高い評価を持つ
指揮者にもすごい人たちがいました。
学校の音楽の授業では絶対に聞けない内容でした。
今回は時間の都合で60分の特別バージョンでしたが
曲もゆったりと味わえた気がします。
でも中身は濃かったです。
T.eng氏の感想
次回はギーゼキングとL・クラウス取り上げます。
それと監督がチェリビダッケに興味を持っていただけまして幸いです。
クレンペラーも楽しいですヨ。