· 

911 多田図尋常小学校の人々 「『無理したらあかんで』に元気づけられました」


2限目 社会
多田図尋常小学校 特別授業
「カメラマンから監督へ」
   〜初監督作品「放課後」を観ながら
小林茂さん(ドキュメンタリー映画監督、
                          カメラマン、元・和光大学教授)
  ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
小林さんをお招きした経緯(校長)
 3月の大倉山ドキュメンタリー映画祭で、小林監督の「わたしの季節」という映画を上映しました。
重症心身障害者施設の第二びわこ学園の日常を丁寧に描いた作品です。私はこれを見てショックを受けました。私の長男は知的障害を持っていますが
「障害を持っていてもみんなと一緒がいい」と考えて
小中高と普通学級に通ってきました。そんなこともあり障害をもった人たちが施設で生活することに違和感を持っています。
 今回、実行委員会の試写で「わたしの季節」を見たあと、かってなかったほど気分が重くなって、一言も感想が言えなくなってしまいました。帰り道で「これはなんだろう」と必死に考えていると映画の中の、寝たきりでコミュニケーションも取れない少年の姿が浮かんできました。
じっとカメラを見つめる少年から
「僕はここにいるよ。こうやって生きているよ。
あなたはどこにいるの?どう生きているの?」と
問われているような気がしたのです。
これまでも何度か障害者を描いた映画を見てきましたが、「自分の存在」を問われたのは初めてでした。
この映画を撮られた小林さんのお話を聞きたいと思いました。映画祭に来られた小林さんに多田図尋常小学校での授業をお願いしたところ「映画の話ならできます。3月で大学も退職することですし…」と
快諾していただき、今回の特別授業が実現しました。
 しかし今回は小林さんの特別授業の参加者がいなかったため、初監督作品「放課後」(20分)の鑑賞は中止して、小林さんの足跡をT.eng氏と校長の2人でお聞きするという贅沢な授業となりました。
     ・     ・     ・

「カメラマンから監督へ」

                  小林茂さん


両親について
 私は昭和29年に新潟県の中ほど下田村(現・三条市)で生まれました。大竹茂が私の名前でした。これが小学校2年の遠足の写真で右から2番目が私です。

 

 和裁を習っていた母は樺太で子守をしたり滋賀県の紡績工場で働いていたのですが、19歳で父と結婚。二人で満州に渡ります。父は満州の鉄道会社(太原鉄道)に就職して働いていました。

 これが満州で生まれた長女と両親が撮影した写真です。当時、3人では縁起が悪いと言われていて人形を抱いています。

 母は中国の天津の易者から「あなたは3人子どもが生まれる」と占ってもらったそうですが、実際には7人の子どもを産みました。でも4人が幼くして亡くなり結局3人残り、母はよく「あの易者は当たった。当たった」と言っていました。

 終戦を迎えて大連から引き揚げ船で京都の舞鶴に上陸します。そして新潟の下田村に3反6畝の田畑で農業を始め、新しい生活が始まります。ところが家が全焼。しばらく親戚の家や納屋、お寺の本堂を転々としながら暮らしましたが、その中で両親は必死で働き、家もなんとか再建することができました。

 

中学で山田先生と砲丸投げとの出会い
 中学に進んだ私は山田先生というおもしろい担任と出会います。「世界は広い」と教えてくれた恩師です。下田村は小さな町なので生徒数も少なく集団競技だと大都市の学校に歯が立ちません。そこで私は山田先生の勧めもあり、個人競技である陸上部に入って砲丸投げをやることにしました。体格には恵まれていた私は、いい成績を出すことができました。強くなると遠征で見知らぬ土地に行くことができました。山田先生はその後長岡に転勤となり、小林の家に下宿することになりました。そして、先生から子どものいなかった小林夫妻の養子にならないかと提案され、長男でもなかった私は、高校進学を機に、養子となり小林茂となりました。現在住んでいる部屋が、山田先生が下宿した部屋です。

 

大学進学で関西へ
 大学は同志社の法学部に入りました。関西に住んでみて驚いたことがあります。新潟では失敗を恐れて消極的な面が多いように思いますが、関西の人は「失敗したら失敗したときや」とチェレンジ精神が豊富です。次第に私も慣れてきましたが関西の人の超ポジティブ思考はとても参考になりました。
 私が大学進学した時、公害問題が次々と表に出ていた時期で、東大助手の宇井純さんが「公害原論」という公開講座などをやっていました。「公害は現地から」という考え方です。私は古本屋でたまたま見かけた「田中正造と足尾鉱毒事件」という本に導かれ、現場となった渡良瀬川をヒッチハイクで溯りました。栃木県の足尾銅山の精錬所の亜硫酸ガスで一帯はハゲ山でした。また、銅を含んだ鉱滓に雨が降るわけです。また、ズリ山が決壊することもあります。重金属が溶け出して渡良瀬川に流れ込み、周辺に大きな被害を出した事件です。また被害を天皇に直訴して逮捕された田中正造の生き方にも衝撃を受けました。いてもたってもいられず当時、汚染米の補償や土地改良を要求していた鉱毒反対運動にも通い始めます。私はメモ代わりにカメラであれこれ撮っていましたが、現地で他の報道カメラマンと違った角度で撮影する人と出会いました。不思議に思って聞くと現地で写真館を営む佐野聖光(くにみつ)という方でした。その方は「閉山日記」という写真集が木村伊兵衛賞の候補作に入っていたので名前を知っていたのです。足尾のスタジオまで誘われてその素晴らしい写真に圧倒されました。頼み込んで現像方法まで丁寧に教えていただき、私の写真技術も格段に進歩します。いわば私の写真の師です。

 

ドキュメンタリー映画との出会い
 そして大学2年の春休みに広島、水俣、長崎と体験旅行に出かけます。水俣病は、チッソの水俣工場がプラスチック原料の製造過程で、メチル水銀を含んだ廃液を不知火の海に流したため、汚染された魚を食べた多くの住民が有機水銀中毒になった事件です。ここでも患者さんへの支援活動に関わりました。アメリカ人の写真家ユージン・スミスとアイリーン・スミスが現地に住み込んで撮影を続けて優れた写真集も出しています。また土本典昭監督が作った「水俣ー患者さんとその世界」という映画をと出会ってドキュメンタリー映画の伝える力の凄さを知り、大きなショックを受けました。

 

ハンセン病の人たちとの出会い
 いまだに怖い病気と思われているハンセン病があります。感染力も弱く治療薬もできて完全治癒するにも関わらず偏見が根強く、それを避けて患者さんはいまだに離れた施設に住んでいます。その一つの岡山の国立療養所・邑久光明園があります。当初500人くらい住んでいた患者さんも100人くらいに減っていますが、そこで撮影をさせていただきました。その中でぬいぐるみを抱えて車椅子を使っている老人と出会い、撮影をお願いすると咄嗟に顔を隠すのです。聞くと自分がハンセン病だと知れると親類家族に迷惑がかかるというのです。ハンセン病に対する偏見はいまだに患者さんを苦しめているのですね。その施設に行くには道路がなく船で通うしかないのですが、長く架橋運動が続けられ、ようやく長島大橋が完成しました。これは渡り初めの1シーンですが、アサヒグラフで掲載されました。

 

中国への旅
 かって両親が暮らしていた満州に一度行ってみたいと思っていた私は、1972年の田中首相の日中国交回復を機に、1975年に行われた日中友好学生訪中団に副団長として潜り込み、50人くらいで満州(現・東北部)に行くことができました。当時は文化大革命の末期でしたが、子どもたちに射撃訓練もしていました。また公的なコースになかったのですが、中国国際旅行社に無理に頼み込み、日本兵が現地住民を集団虐殺した現場に作られた平頂山遺骨記念館を見学に行くことができました。友人からカメラを借りて撮影したのですが、なぜか1枚も撮れておらず、記念館の中の様子はホームページの写真です。これに懲りて、親が病気と称して大学に奨学金を申請してこっそりプロ用のカメラを購入しました。

また中国戦線で戦った渡辺義治さんの父親は帰国後、家庭内暴力を振るいました。そんな中で育った渡辺さんもトラウマを持っていました。そういう問題意識のなかで中国残留夫人の問題や南京大虐殺をテーマに劇を作っていました。長岡での公演にも関わらせていただきました。のちのち、私自身にもトラウマがあることがわかるのですが。

 

写真から映画の世界へ

これは愛知県の療育グループ「知多市手をつなぐ親の会」の活動の様子を撮った写真集「今日もせっせと生きている」です。

これはアフリカの子どもたちを撮った初めてのカラー写真集「トゥスビラー(希望) ウガンダに生まれた子どもたち」です。

 次の写真は整腸剤キノホルムが原因で手足の麻痺となった被害者の方々を撮った薬害スモン「グラフィック・ドキュメント・スモン」です。ここで私は「小林さんの写真は障害を強調しようとしているのではないか」とボランティアで参加していたサリドマイド被害者の青年に指摘されました。私はそのときは否定しましたが、よく考えれば、車イスなど目立つところばかりに目がいっていたと思います。その後、目に見えるところに囚われず、目に見えないところを撮ることが大事だと撮影の姿勢を変えました。この出来事は後の私に大きな影響を及ぼしました。

この患者さんは足が麻痺をしていますが笑顔でとうもろこしを収穫しています。不自由な足は写っていませんが笑顔に引き寄せられて思わず撮りました。


この患者さんの裸の写真を撮りたくてお願いして撮影しました。何よりこの筋肉を見ていただきたいです。足が不自由なので庭に設置した平行棒で訓練した結果です。

 

『阿賀に生きる』
 この写真は、水俣と同じく水銀で汚染された工場排水が原因で水銀中毒になった患者さんたちを描いたドキュメンタリー映画「阿賀に生きる」です。監督は佐藤真さんで私はカメラマンとして参加しました。若い撮影クルーが現地に住み、農作業をしながら撮影しました。右端でカメラを回している若者が私です。おかげさまでこの映画で、さまざまな賞をいただきました。


現地で大変お世話になった長谷川さんご夫妻です。

 

私の映画監督の初作品『放課後』
 次の写真は札幌の学童クラブの活動を撮ったドキュメンタリー映画「こどものそら」の1シーンと、撮影シーンです。これは私の初めての監督作品です。『阿賀に生きる』のあと、もう一つ『地域をつむぐ』(時枝俊江監督)の撮影もしました。そこでかなり認められ、2つの仕事のオファーを受けました。しかし、私は認められたことから、どこかで天狗になっていたのかもしれません。続けてキャンセルされてしまいました。その落胆は激しいものでした。
 ある時、札幌でアフリカの子どもの写真展をしていた時に一人の方から声をかけられました。「アフリカの写真というので、もっと悲惨な写真を想像していたのですが、子どもたちの自然な笑顔に救われた感じです。今度は日本の子どもたちの写真を撮ってください」。話を聞くと札幌の学童クラブの方でした。誘われるままに学童クラブに行ってみると障害のある子もない子も一緒に、コマやメンコが飛び交うカオス状態。そんな状態を撮りたくなって寝ていても頭の中に4コマ漫画のような絵コンテが浮かんでくる始末です。そこでフィルム会社にお願いして400ftフィルムを2本(20分)提供してもらって、周囲のスタッフを巻き込んで、1日だけの撮影を敢行しました。フィルムに余裕がないので、直感を頼りに目の前に起きることを撮りまくりました。撮影したフィルムを編集して学童関係者に見てもらうと、「小林さん、これを映画にできませんか」と声がかかりました。「いや、映画にするには100万円かかりますよ」と言うと、「いいですよ。声をかけてお金を集めます」ということになり、それで完成したのが20分の私の初めての映画監督作品『放課後』でした。その後も夏休みの自転車旅行や冬休みの雪合戦の様子などの2作品をとり、合わせて学童クラブ3部作『こどものそら』となりました。


 アフリカで透析を受けながら撮影
 腎臓を悪くしていたとき、ある友人からケニアのストリートチルドレンを撮って欲しいと依頼を受けました。透析直前の体調でしたので、最後のチャンスと思い、私はいざとなったら透析ができるようにシャント手術(透析ができるように血管を太くする手術)を受けて撮影に行きました。この撮影を通して、悲惨な状況下で生きる子どもたちの姿から、反対に多くのものをもらったような気がします。

 

脳梗塞の体験が新しい視点を
 大学の先輩が就職した重症心身障害者施設、第二びわこ学園が設立40年にして、新設移転をすることになり、私に現在の学園を撮影してほしいという依頼がきました。これもご縁だと腹を括り、取材を続け、さて、クランクインだと、スタートする直前に、突然、脳梗塞になって左半身が麻痺してしまいました。絶望感の中でベッドから天井を見あげる毎日、自分が今までやってきたことなど、さまざまなことを考えました。それでも必死にリハビリに励み、なんとか動けるようになるまで待ってもらい、改めて利用者さんと徹底的に向き合いながら撮影することができました。それが「わたしの季節」です。患者さんから言われた「小林さん、無理したらあかんで」という言葉が、いちばん元気づけられました。


鬱から救ってくれた『風の波紋』
 『阿賀に生きる』などともに映画を作ってきた佐藤真監督が急死して、私は鬱になりました。ある時、友人が移住した村へ遊びに行くと、夜、お酒やつまみを持ち寄って盛り上がって歓迎してくれました。しかし、農繁期で、早朝になると誰もいなくなるんですね。ふと外を見ると日差しが山を照らして夜露が光っていました。「ここなら映画が出来るんじゃないか」と感覚的に思って出来上がったのが、この映画「風の波紋」です。

 

『性虐待』
 今は性虐待をテーマにした映画に取り組んでいます。これは昔からの友人が、幼いころの性虐待を、40歳になってフラッシュバックを起こしました。30年来、私も苦しんできました。そして、あるとき、性被害を公表している写真家の方と出会い、映画制作を決意しました。それが『魂のきせき』です。現在は、クランクアップして、編集に入るところです。和光大学で映像を教えていた時に、一人の女子学生が卒業制作に自分の受けた性被害を取り上げたのです。自分の過去と向き合おうしている彼女の姿をみて、私も最後まで完成させなければと思っています。ありがとうございました。

校長の感想です
 小林さんの生い立ちやこれまでの足跡を伺い
ほぼ同時期を平凡に生きてきた私にとって強烈で
半ば言葉を失ったような感じになりました。
「わたしの季節」の少年から自分の存在を問われた私は、
無意識にその答えを、今回の小林さんのお話から、
見つけようとしていたようです。

しかしそこに答えはなく、反対に小林さんから
「私はこう生きてきたけど、
あなたはどう生きてきたのですか。
またこれからどう生きていきますか」
と、映画の少年に続いて新たな問いをいただいた気がします。ここで、「問いが生まれる小林さんの映画」と
それを作られた「小林さん」が重なってきました。
結局、自分を生きることで「答え」を作って行くしかないのですね。小林さんから大きなプレゼントをいただいた思いです。私の超個人的な問いに最後までお付き合いいただきありがとうございました。


T.eng氏の感想です
監督の制作よもやま話も中々に濃くて面白かったです。関西での「人間関係」や制作時の「忍耐」なお話とか…。

小林さんからのメッセージです。
 昨日はありがとうございました。音楽の時間も楽しく拝聴いたしました。こういう小学校を続けるのもエネルギーが要りますが、中城さんの好奇心の強さがそうさせるのでしょう。お互い、いつのまにか、年齢を重ねてきましたが、どうぞ、お元気でお過ごしください。また、お目にかかります。


*佐藤真レトロスペクティブが開催されます。
私が撮影した『阿賀に生きる』『阿賀の記憶』も上映され、5月24日には私も初日に駆け付けます。
https://www.bunkamura.co.jp/cinema/lineup/24_satomakoto.html

***************
小林茂