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928 多田図尋常小学校の人々「次回はセルとライナーを取り上げます」


●2限目(10:10~10:50)音楽
「Coffee Break Music In Tadaz」 
 本日のバリスタの気まぐれブレンド
「ソ連の伝説的奏者 
                     ・延長戦」
コーガンとギレリス 
~
    T.eng氏(音響エンジニア)

 

西側諸国の演奏は音源が豊富にあるため色々な人の演奏が聴けますが、東側…というより当時のソ連の音源を手に入れようとするとハードルは高めです。それ故当時のリヒテルが「鉄のカーテンの先の伝説」たりえたわけです。そんな「鉄のカーテン」の先にいる伝説的な奏者としてヴァイオリニストの「レオニード・コーガン」とピアニストの「エミール・ギレリス」を紹介しましょう。早くから西側諸国に出ていたギレリスはバックハウスと並びベートーヴェンの大家として、オイストラフと並びソ連のレジェンドと称されるコーガンは硬派な音色でコアなファンが多くおります。壮大さと個性が際立つリヒテルや艶やかな音色が特徴のオイストラフに対し、ギレリスとコーガンにあるのはいぶし銀の渋さ。ロシアン・ダンディズムの美学がそこにはあるのです。

 

政治に翻弄されつつ、
 甘さを控えたいぶし銀のような演奏
 レオニード・コーガンは1924年にウクライナのドニプロペトロウスクでアマチュアでヴァイオリンを弾いていた父の息子として生まれました。幼少時にヴァイオリンの才能に気づいた家族とモスクワに引っ越してモスクワ音楽院附属の音楽学校に入学し、A・ヤンポルスキー教授に卒業まで習いました。ちなみに同教授の弟子にはのちに夫人となるE.ギリレスがいました。在学中に聞いたヤッシャ・ハイフェッツの演奏に大きなインパクトを受け、1948年モスクワ音楽院卒業後は研究科に在籍します。1941年モスクワ音楽院大ホールにてブラームスのヴァイオリン協奏曲を演奏しプロデビューし、そこからソ連全土で演奏します。
1951年にはブリュッセルのエリザベート王妃国際音楽コンクールでパガニーニの協奏曲第1番を演奏して優勝、1955年から世界演奏ツアーを開始し、特にアメリカのデビューは大成功で高い評価を受けます。ただし冷戦時代の真っ最中なので反共活動の標的となりカーネギーホール演奏会で爆弾騒動に遭ったり、時代に翻弄された演奏家でした。1952年からモスクワ音楽院、1082年からイタリアでも教え始め、多くの演奏家を育てます。日本人の弟子では、日高毅、佐藤陽子、天満敦子がいます。夫人はピアニスト、エミール・ギリレスの妹のエリザヴェータ・ギリレス。息子のパヴェル・コーガンもヴァイオリニストでしたが指揮者になります。娘のニーナ・コーガンも晩年の父の伴奏をします。まさに音楽一家でした。1982年に列車移動中に心臓発作により58歳の生涯を閉じます。
 彼は政治的状況の不遇さもあり、モスクワにこもっていて、演奏の音源も技術的に遅れていたソ連の録音に限られていましたが、それでもボックスセットの発表で、世界で知られるようになりました。中でもピアノのギレリスとチェロのロストロポイーヴィッチと共演した、ベートーヴェン、ブラームス、チャイコフスキーなどのピアノ三重奏は高い評価を受けています。
 同時期のオイストラフのような華やかな演奏とは異なり、甘さを控えめで、しっかりとメリハリもあり、いぶし銀のような演奏です。「俺の演奏はすごいでしょ」という自己顕示もなく、あくまで客観的に演奏しています。ヴィブラートも速く澄んだ音色で音に濁りも全くありません。

 

 

高度な技巧と客観的で渋めの演奏から

           独自の境地に
 エミール・ギレリスは1916年ウクライナのオデッサに音楽家の両親の元に生まれます。5歳からオデッサ音楽演劇専門学校附属教室に入って13歳でピアニストとしてプロデビューし、オデッサ音楽院に進み1931年にアルトゥール・ルービンシュタインに認められます。1933年には全ソ連ピアノコンクールにて優勝し、1935年にモスクワ音楽院に入学します。1年違いでスヴャトスラフ・リヒテルがいました。1936年のウィーン国際コンクールでは第2位、1938年のイザイ国際コンクールで優勝します。第二次世界大戦では前線に慰問の演奏を行っていました。戦後の冷戦でソ連当局は演奏家に西側での活動を認めなかったのですが、ギリレスなど数人は何故か大目に見られ、1947年より西側での演奏活動をしています。1955年にはアメリカでチャイコフスキーのピアノ協奏曲第1番の演奏でデビューし、日本にも数回来日しています。1985年にモスクワで68歳で亡くなります。
 演奏レパートリーは広く、バロック、ロマン派、20

世紀の音楽、イタリアものまで、なんでも弾きこなしますが、中でもベートーヴェンの演奏では高い評価を得ています。高度な技巧と、感情に溺れず、甘さを控えた渋めの演奏は、飾らないごく自然なもので、特に晩年にはさらに磨きがかかり、他の追従を許さない境地に達していました。言ってみればハードボイルドの世界です。


井上さんの質問
 二人の派手さはないもののミスもなく完璧な演奏は、安心して聴いていられ、また確実に何かが伝わってきました。この感じは当時のソ連の時代背景と関係があるのですか。
 T.eng氏:そうですね。スターリンと言えば、ある日、彼が聴いた曲が痛く気に入って部下に「レコードを持ってこい」と命令したそうです。ところがその曲は録音もレコードもなかったので、急遽、演奏家と録音技術者を集めて演奏と録音を行ってレコードを制作。出来立てのレコードをスターリンに届けたそうです。その影響は考えられますね。


井上さんの感想
 T.negさんの音楽の授業は楽しく拝聴いたしました。素敵な音楽とお声と深い知識にふれることができて贅沢な時間でした。ありがとうございました。

校長の感想
 今回の二人の演奏は煌びやかとは対照的に感じました。自動車などの工業製品でも、ロシア製はイタリア、フランスのような華やかさはなく土着的で質実剛健的な匂いがするのですが。これはスラブ民族の風土的なものなのでしょうか。

 

T.eng氏の感想
 次回はセルとライナーを取り上げます。