●1限目(9:30~10:10) 社会・・・
「美味しいものが
食べたい」
〜小4で作った炒飯、串カツ屋の賄い、
仕出し弁当屋、趣味の料理〜
小林照恭さん(インテリア雑貨 AMANE代表)
昨年2月にインテリア雑貨に関するお話をしていただいた小林さんは大の料理好きです。親類の集まる新年会には必ず美味しい煮物をご持参され、ご自宅に伺うと、冷蔵庫にあるもので、ささっと美味しい料理を作ったり、デザートにおしゃれなアップルパイまででてきます。先日、お会いした時にも新作のオリジナル料理の話を楽しそうにされていました。そんな小林さんの料理への熱い思いや創造力は、どこから生まれてくるのでしょうか。そのあたりを詳しく伺いたいと思います。
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鰻を捌いて食べさせてくれた祖父
校長先生から「料理の話をしてほしい」と頼まれたときに思ったのですが、私にとって祖父の影響がとても大きかったことに気がつきました。私の父方の祖父は戦争に行ってたのですが、復員してからブロック工、タイル工、時計の修理工などを様々な仕事をやって、最後はソニーで技術関係の仕事をやっていました。なんでも
作ることが好きで、突然
セメントを買ってきて自宅のお風呂を作ったり、
お正月のおせちも全部自家製でした。また休みの日には、私たち孫を連れて
山菜採りや魚釣りなどあちこち行っていました。それが面白かったですね。ある時は
罠でとった鰻を目釘を打って捌いて蒲焼を焼いて振る舞ってくれたりもしました。目釘ですよ。
私の母も料理好きで美味しい料理を作ってくれました。祖父たちとは
2世帯住宅で食卓は別なので、私は両方の食卓を往復しながら美味しいものばかり、たらふく食べていました。幼い時から料理に興味があり、二人の料理の工程をずうっと観察していました。小3の時、母親に頼んで冷蔵庫のネギや残り物のハムや卵を使ってチャーハンを作ったのが、私の最初の料理です。最後に母が味付けを手伝ってくれましたが、おいしかったです。すると毎週日曜日の朝食作りが私の担当となりました。昨晩の残りのひやご飯を洗って滑りを取って、味噌汁と卵を加えて雑炊を作ったり。中学高校になると両親がいない時にオムライスやカレーピラフが食べたくなると自分で勝手に作って食べていました。「今日はカレーピラフが食べたい」となると、それ以外は絶対に嫌なんですね。
高校卒業で独立するため
串揚げ屋の住み込みに
高校を卒業したら絶対に家から独立しようと思っていたのですが、就職氷河期で高卒にはパチンコ屋か料理屋しかありませんでした。パチンコには興味がなかったので原宿の席数が40くらいの串揚げ屋さんに住み込みで働き始めました。その串揚げ屋さんは評判は良く支店を3つくらい持っていて人手不足だったのですね。住み込みの寮は本店から歩いて1分の古いアパートの1室に3人で暮らしていました。今から考えると蛸部屋のようですね。ただ私は高校時代の夜ふかしの癖が治らず、よく遅刻していました。朝寝ていると枕元に鬼の形相をした先輩が立っていて、枕ごと足で蹴飛ばされました。当時はまだ髪の毛も染めていたし、先輩の指示に返事をしなかったりと態度の悪さに散々怒られまくっていました。私の仕事は店の掃除、トイレやホールの掃除から始まり、皿洗いをやりました。次は糠漬けの補助です。仕入れた野菜を切って塩をふり、毎日糠床を素手でかき混ぜるのです。手に匂いが染み込むのが嫌で店に行くのが憂鬱でした。今では毎日、我が家の糠をいじるのが楽しくてたまりませんが。私が少し料理ができることが分かってからは賄いを任されました。スタッフは超多忙なので、とにかくお腹に入るものを要求されました。店で余った食材を柱に見繕って出していたのですが、褒められたことは一回もありませんね。でも不味いと残されるので、それなりのレベルには行っていたのでしょう。ぬか漬けの次に任せられたのがキャベツの千切り。店によっては機械を使うところもありますが、その店は包丁にこだわっていました。私にも自分の包丁、刃渡り30センチの牛刀を与えられ、まずは研ぐところから始まりました。砥石は荒砥、中砥、仕上げ、超仕上げの4つを使います。初めはうまく研げず、千切りもぐちゃぐちゃ。「これじゃ店に出せない」と叱られ、膝でお尻を蹴られながら、毎日、包丁研ぎと千切りをやらされました。特に冬はキャベツ自体が硬くしまっているし、それを30個以上、千切りにするのです。力の入れ方もわからずとうとう腱鞘炎になってしまいました。慣れてくると食材とも対話ができるようになって自分なりの切り方を工夫したりしました。トントンと切っているうちに、心が落ち着いていわゆるゾーンに入るという感覚にもなりました。石の上にも3年と言いますが、この串揚げ屋は3年で退職しました。ここで徹底して叩き込まれたのは準備の大切さですね。また包丁やキャベツや糠漬けの材料などの食材と対話ができるようになったことが大きいですね。こう切ったら喜んでくれるだろうとか、今でも食材の声を聴くという当時の癖は染み付いています。
仕出し弁当店の
オープニングスタッフに
串揚げ屋の3年の間に調理師の免許も取ったのですが、特に店を持つつもりもなかったので、店を辞めた後、ぶらぶらしていると仕出し弁当屋を始めるという先輩からオープニングスタッフの声をかけられます。ゼロからのスタートなので、店のレイアウトから看板、メニューと価格の決定、食材や容器の調達、折り込みチラシの手配、チラシを持って近くの事業所を営業して回りました。デリバリーもやりました。ここも評判が定着して電話注文と店にくる来客と合わせて多い時には毎日300食近く出していました。
毎朝、注文を確認して食材を手配して、段取りを決めて仕込み、調理、盛り付け、配達と続き、それが終わるまで休憩は取れません。ご飯、揚げ物だけでなく、煮物をたいたりと結構大変でした。一番の売れ筋ですか?事業所が多いせいか幕内弁当でしたね。ここで学んだことですか?そこは冷凍食品の大手のトーカツフーズの関連会社だったので、冷凍食品を使うこともありましたが、進化した冷凍食品は馬鹿にできないと痛感しました。あとは大量に料理を作るのは大変ということですね。
今は友達を呼んだり、子どもの誕生日、新年会とか、イベントごとに料理を作って楽しんでいます。今の趣味の料理が一番楽しいです。最近は、ウルメイワシの時期なので、それを如何に美味しく食べるかを研究中で、圧力鍋を使ったり、パスタに合わせたりしています。私の料理のスタイルですか?まず冷蔵庫にある食材を確認して構想を固めてから、途中アレンジを加えながら料理をしますね。
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雨宮さんの感想
今日の小林さんのお話を伺ってとても羨ましく思いました。私の両親は共稼ぎで忙しい上、母は料理が得意ではなく「真由美、料理をちょっと手伝って」と言われ、いやいや料理を始めました。それでも美味しい料理を食べたいので、あれこれと工夫を重ねていくうちに、「真由美の料理が美味しいね」と言われ嬉しく思ったことを思い出しました。でも今回、改めて思いましたが、美味しいものを食べることが一番の幸せですね。特に人が作った料理が一番美味しいです。
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校長の質問
小林さんの他の兄弟もおじいさんの影響を受けて料理が好きなのですか。
小林さん
私は3人兄弟の長男です。弟は食べるのは大好きですが料理は一切やりません。妹もあまり料理はやらなかったのですが、最近、食の勉強を始め、手作りの梅干しの製造販売までやっているので、食に対して興味はあると思います。
T.eng氏の感想
ちなみにワタシは凝りすぎるキライがあるので「料理は作らない方が良い」とのこと…。
小林さんの感想:
やはり私は話すより人の話を聴く方がずっと落ち着けるし、自分にあっていると思いました。そうそう包丁研ぎですが、毎回料理する前に簡易包丁研ぎで軽く研いでから使うのが一番簡単で楽です。包丁は切れなくなってから研ぐのが結構難しいです。もしそこまで行ったらプロに頼むのもいいですよ。