「オーケストラ
・ビルダー」
~セルとライナー~
T.eng氏(音響エンジニア)
楽団員を入れ替えて厳しい練習を課し
世界最高のアンサンブルに育てあげる
ジョージ・セルは1897年ハンガリーのブタペストで、ハンガリー人の父とスロバキア人の母の元に生まれます。早くからピアノに才能を現し神童とも呼ばれます。3歳でウィーン音楽院にてピアノ、指揮、作曲を学び始め、10歳でモーツァルトのピアノ協奏曲と自作曲を弾いてデビューします。さらに16歳でウィーン交響楽団にて指揮者デビューをしてから、ピアニスト、指揮者、作曲家として活動をしますが、最終的には指揮者を選びます。1917年にはストラスブールなどの歌劇場で活動、1924年にはベルリン国立歌劇場のエーリヒ・クライバーのもとで第一指揮者となり、その後、プラハのドイツ歌劇場の音楽総監督になります。ユダヤ系のセルはナチスの台頭とともにイギリスに活動拠点を移します。1939年にアメリカで演奏旅行中に第二次世界大戦が勃発しアメリカに定住し、トスカニーニの援助もありNBC交響楽団や、メトロポリタン歌劇場で指揮をします。終戦後の1946年にはクリーヴランド管弦楽団の常任指揮者となりますが、地元の有力者トーマス・セルドーのサポートにより、経営側から全てのマネジメントの権限を獲得して、楽団の大胆な改革を行います。楽団員を大幅に入れ替えて徹底的に鍛え上げ、全米の「ビッグ・ファイブ」と呼ばれるようになり、さらには世界最高のアンサンブルと称されるまでに育てあげます。1970年には日本万国博覧会の記念企画でクリーブランド管弦楽団と来日、高い評価を得ますが、帰国後、多発性骨髄腫により73歳で亡くなります。
セルはオーケストラに厳しい練習を課し、正確な演奏の上に端正でクリアで、バランスの取れた音楽を作り出します。その感情移入を避けた客観的な演奏により、その曲の持つ本質的な美しさを引き出しますが、あまりの完璧な演奏に冷たいと言われることもありました。ライブ録音も多く、ものすごい速さで演奏したものがありますが決して演奏が破綻しないのも抜群のバランスの良さ故だと言われています。ドイツ育ちのセルはドイツ系、さらにはハンガリー、スラブ系のレパートリーを得意としていましたが、ハイドン、モーツァルトなどの古典派やロマン派でも優れた演奏を行っていました。そのためたとえベルリンフィルの主席奏者に対しても「君の音は外れているから、やり直し」と平気でハードな要求をしました。リハーサルでもパートごとに入念に練習をさせてから全体に完璧なアンサンブルを作り上げていきます。NBC交響楽団を指揮した時にはトスカニーニが「私の楽団を壊さないでくれ」と言ったそうです。
いくつもの無名交響楽団を鍛え
世界的オーケストラに育てあげる
フリッツ・ライナーは1888年にブタペストでユダヤ系の一般家庭で生まれ、リスト音楽院でバルトークなどからピアノと指揮と作曲を学びます。1909年にコミック•オペラに入ってティンパニー奏者と声楽のコーチをなり、1910年にライバッハ歌劇場でビゼーの「カルメン」で指揮者としてデビューします。1922年に渡米し、シンシナティ交響楽団の音楽監督に就任、1933年にはカーティス音楽院の教授となりレナード・バーンスタインなど多くの学生を指導します。1938年にはピッツバーグ交響楽団の音楽監督、1948年にはメトロポリタン歌劇場、録音専門のRCA交響楽団を指揮、さらに1953年にはシカゴ交響楽団の音楽監督に就任して、いずれも厳しい指導で一流の楽団に鍛えあげます。1963年に肺炎にて死去します。
広い演奏レパートリーを持ち、どの曲もダイナミズムあふれる演奏をし、リヒャルト・シュトラウス、バルトーク、ベートーヴェンの交響曲など高い評価を得ます。演奏する曲は完全に把握した上、指揮棒を緻密で精密に動かしその小さな動きにも完璧に反応するオーケストラに鍛え上げます。指揮棒だけではなく目線で指示を出すこともあります。またキーパーソンの楽団員には予告なしに実地試験を行い合格者を使っていくスタイルをとっていました。そのため無名に近いシンシナティ交響楽団とピッツバーグ交響楽団は飛躍的に進化を遂げ、シカゴ交響楽団は世界的な名声を得ていきます。一方で楽団員とは折り合いが悪く、シンシナティ交響楽団ではアメリカ初の音楽家の労働組合が作られました。共演したソリストとぶつかることもあり、ホロヴィッツとは仲が良かったのですが、ルービンシュタインとは相性が良くありませんでした。対人関係の悪さに加え、政治力に恵まれなかったため、念願の音楽監督になる時期もかなり遅くなってしまいました。ただライナーは男女関係なく実力で楽団員を選んだため、当時、男性社会であったオーケストラで女性演奏者比率が高かったです。