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まずこの絵を見てください。これはイギリスのファージョンという児童文学作家が書いたファンタジー『ムギと王さま』(石井桃子訳 岩波少年文庫)の「作者まえがき」の冒頭に出てくる挿絵です。「本の小部屋」で子どもが本で溢れている部屋に座り込んで、本をむさぼり読んでいます。子どもの本の世界ではよく知られている画家エドワード・アーディゾーニの、有名な挿絵です。
次にこちらをごらん下さい。少年が縁側に寝転んで本を読んでいます。この絵を描いた人誰だかわかりますか? 実はジブリの宮崎駿さんなのです。これはスタジオジブリが特別?に作った豆本「岩波少年文庫の50冊」(選・宮崎駿)の表紙絵で、翌2011年、宮崎駿『本へのとびらー岩波少年文庫を語る』と題して岩波新書に昇格?して、トビラ裏の口絵(色刷り)にもなっています。
ここで宮崎さんは、「本を夢中になって読む子ども」というテーマの絵を、自分の子ども時代の日本での同じ状況に「読み直して(置き換えて)」描いています。私はこの絵を見た時、これは宮崎さんが、子どものための文化に貢献した英国の先人・アーディゾーニに捧げたオマージュだと思いました。事実、「岩波少年文庫の50冊」の中で『ムギと王様』を紹介するページでこのアーディゾーニの挿絵を掲げて「この人の描く愛らしい絵は、幼児の世界にぴったりです。こういう風にペンで描くのかと参考になりました。(中略)後の時代に出てくるペン画のようにギスギスしていないんです」と言葉を添えています。
宮崎さんは、大学時代に児童文化研究会に入っていて子どもの本に造詣が深く、石井桃子さんやそのお弟子さんの中川李枝子さん(『ぐりとぐら』の作者)の仕事にとても敬意を抱いています。私は宮崎作品を「風の谷のナウシカ」からこの間の「君たちはどう生きるか」まで、ずっとリアルタイムで見てきましたが、宮崎さんの児童文学への深い理解があるからこそアカデミー賞を二度も受賞するような世界に通用する「映画」を創れたのだと思っています。
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1冊の本と1冊の絵本
アーディゾーニと宮崎さんの絵を見ながら思いを巡らせていたら、ある文章を思い出しました。若い頃読んだ小倉朗という作曲家(この人は武満徹さんほど知られていませんが『自伝 北風と太陽』『日本の耳』など西洋音楽と日本文化を比較考察した面白い著作があります)が書いた『現代音楽を語る』(岩波新書)の中の文章で、ハンガリーの作曲家バルトークについて述べた箇所です。
そこを読んでみますと、「(バルトークが)アメリカに渡って(亡命して)からあとの作品を思うとき、僕は不思議な感慨に打たれる。(中略)この時期の作品は、僕の耳に、いずれも古典の大家に捧げられた讃歌のようにきこえる。「オーケストラのコンチェルト」はベートーヴェンへの、「無伴奏ヴァイオリン・ソナタ」はバッハへの、そして「ヴィオラ・コンチェルト」と「ピアノ・コンチェルト」はモーツアルトへの、それぞれ心から捧げられた音楽にきこえるのである。思えば、少年時代、彼は秘かに非キリスト教徒としての最初の音楽家たらんと決意していたはずである。永い曲折を歩んだのち、遂にこの世との別れに際して、彼の祈りは神にではなく、古典に捧げられたのではなかろうか」
この小倉朗の文章は、モノをつくる人間の、もうちょっと大げさに言えば、どのような分野の芸術家にも通ずる創作の機微にふれているのではないかと、私は今も思っています。
そういう文章を引いたあと、自分のことを話すのはかなり気恥ずかしいですが、私が大人になって絵本に再会したのは『もりのなか』(マリー・ホール・エッツ/福音館書店)によってです。福音館書店に入社してすぐ、住んでいた武蔵境の駅近くにあった小さな本屋さんで偶然手に取ったのがこの絵本です。のちに知りましたが、この絵本はファンタジー(空想物語)絵本の世界的な傑作・古典的作品なのです。私は大学を出て本作りに携わりたいとは思っていましたが、当時は絵本に対してそれほど強い関心があったわけではありません。
でもこの地味な絵本を立ち読みしていくうちに、ぐんぐんこの絵本の世界に引き込まれていきました。すぐれた作品(それは文学でも音楽でも絵でも同じだと思いますが)に出合った時、ヒトの意識は不思議な働きをするもので、その作品世界に周囲が見えないほどグイグイ引き込まれ夢中になっていながら、あとになって振り返ると、その作品自体と共に自分がその作品世界を体験している周囲の状況までもが鮮明に記憶されて残っている、そういう経験がありせんか? 私が『もりのなか』に出合った時は、まさにそういう状況でした。
そして「ぼく」は、出会った動物たちと仲良くなって、おやつを一緒に食べたり、ハンカチ落としや〝ロンド橋落ちた〟をしたりして遊びます。ここからが重要なので原文を読みますと「それからかくれんぼをしたら、ぼくがおにになりました。みんな、かくれました。(ここでページをめくって)
「もういいかい!」と、ぼくはいって、めをあけました。するとどうぶつは一ぴきもいなくなっていて、そのかわりに、ぼくのおとうさんがいました。おとうさんは、ぼくをさがしていたのです」
つまり、目をあけて、おとうさんが出現することで「ぼく」の空想の世界は消え、現実の世界に戻るわけです。立ち読みしていた私も、ハッとして「ぼく」と一緒に、それまで気持ち良く森の中で動物と遊んでいたファンタジーの世界から、現実の世界に戻って目覚めたのです。「へえー、子どもの絵本で、こんなことが出来るんだ!」。とても大きな驚きがありました。
もう一つ驚いたのが、このお父さんです。お父さんは「誰と話してたんだい?」とぼくに聞いて、ぼくが「どうぶつたちとだよ。みんなかくれてるの」と答えると、「そんな動物いないじゃないか」とは言わないんですよ。空想と現実の世界を自由に行き来するのは子ども時代の特権ですが、大人はそのことを忘れ、ついうっかり子どもの空想の世界を否定してしまいがちです。でも、このお父さんはそうではない。その代わりに「だけど、もうおそいよ。うちへかえらなくちゃ」「きっと、またこんどまで まっててくれるよ」と言って、ぼくを肩車してくれて一緒にうちへ帰るのですよ。「ぼく」は最後に肩車から森に向かって叫びます「さようならぁ。みんなまっててね。またこんど、さんぽにきたとき、さがすからね!」。
これには「ぼく」だけじゃなく、読者の子どもたちも(大人も?)大満足ですよね。自分の見えている空想の世界を、大好きなお父さんが認めてくれているわけですから。
私はこの絵本を立ち読みしたおかげで、自分の絵本作りに目標が出来ました。もし編集部に異動になり絵本が作れるようになったら、こういうファンタジー絵本を作ろう。しかも日本の子どもたちが身近に感じている自然や風土、文化的環境にしっかり根差したところから空想の世界が展開していく、そういう絵本を作ろう、と思ったのです。それが、あとでご紹介する長谷川摂子さんと当時まだ絵本デビューしていなかった降矢奈々さんと一緒に作った『めっきらもっきら どおんどん』という絵本です。
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民族玩具を絵本の主人公に
さて、これは皆さんもよくご存知の『だるまちゃんとてんぐちゃん』(加古里子作/福音館書店)です。この「だるまちゃんシリーズ」は、この「てんぐちゃん」が1967年に刊行されて以来加古さんが亡くなる直前まで全11冊発行されている人気シリーズです。
私はその第4冊目『だるまちゃんととらのこちゃん』を担当することが出来ましたが、そのすぐあと加古さんから直接このシリーズ誕生に関わる秘密?を教えてもらう機会に恵まれました。
それが、このロシアの民族玩具・マトリョーシカ人形を主人公にした『マトリョーシカちゃん』(ヴェ・ヴィクトロフ & イ・ベロポーリスカヤ 原作/加古 里子 文・絵/福音館書店)なんです。
加古さんは福井県生まれで東大工学部出身の工学博士です。戦後すぐの学生時代には、川崎の工業地帯などで演劇や紙芝居を作って、労働者の子どもたちを楽しませるセツルメント活動を熱心に行っていました。とても勉強家で、食費を削りながら古本屋で海外の画集や江戸のおもちゃ絵を買ったり、神保町のロシアの本専門店「ナウカ」でソビエト連邦発行の絵本雑誌定期購読したりしていました。当時のソ連は世界の希望の星でしたからね。ひょっとしたら世界で初めて労働者が統治する「四民平等」の国が出来るかもしれないという夢を、皆がソ連邦に託していましたから。
加古さんは、そういう国が子どもたちにどんな絵本を見せているのか知りたかった。その実物を私は手に取らせてもらいましたが、それは「ベショルイエ カルチニーク」名称の絵雑誌で、色刷りではありましたが、粗末なざら紙をホチキスで綴じた薄い本でした。その本の見開きにコマ割りで掲載されていたのが、「マトリョーシカちゃん」です。加古さんはこの物語に出合った時の驚きをこう表現しています。
「簡潔な文・明快な画・堅実な構成・健康な民族性―これこそ珠玉の作品」「なんとかしてこの〝マトリョーシカちゃん〟を自分のものに、日本のものに、日本の子どもたちのものにしたいと思いつめ、夢み、試み、あせり、失敗し、落胆し、気を取り直し、またなげき、こうして九年の時が流れてゆきました」(1984年『マトリョーシカちゃん』折り込み付録作者のことば)若き加古里子の絵本への情熱が伝わってきます。加古さんはまた、この絵雑誌の編集発行所が、文芸組合や教育機関でなく「若者の集まりである青年同盟」であったことにひきつけられた、とも書いています。ご自分のセツルメント活動を重ね合わせていたのでしょうね。
この加古里子翻案版『マトリョーシカちゃん』を担当した時、私はまだ駆け出しの編集者でしたが、加古さんの絵本作りの姿勢、子どもたちへの向き合い方にも大きな影響を受けました。加古さんは自分が戦中軍国少年であったことへの苦い反省から、今の子どもたちが自分の頭でものを考えることが出来るために少しでも役に立ちたいと、2018年に亡くなる直前まで、科学絵本も含め600点以上の絵本を作り続けました。
そのあたりのことは、文春文庫『未来のだるまちゃんへ』で読むことができます。
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日本の伝統美術・絵巻物から学ぶ
この猿を墨で描いた絵を見て何かを思い出しませんか。そうです。日本最古のマンガと言われる「鳥獣(人物)戯画」ですね。こういう絵のスタイル・様式を白描画といいますが、墨線だけで、とても生き生きと表情豊かに「さるとびっき(かえる)」のやりとりが描かれています。そういえば、宮崎駿さんの盟友だった高畑勲さんは、「鳥獣戯画」や「信貴山縁起絵巻」「伴大納言絵詞」などの国宝絵巻を「十二世紀のアニメーション」と呼んで、それをそのままタイトルにして浩瀚な本(徳間書店刊)まで作っています。どうして日本でこれほど多くのマンガやアニメーションが作られ、それが世界に広がっているのかを微に入り細を穿って分析しています。それは見事なものです。高畑さんは日本美術に造詣が深い人でした。
梶山さんとも長いお付き合いで、仕事だけではなく、プライベートでも梶山さんの地元の市川や船橋、子どもの頃疎開されていた常陸太田や、北茨城の漁師宿であんこう鍋をつつき、お酒を酌み交わしながら、編集仲間や梶山ファンの子どもの本専門店の方たちと一緒にいろんなことをおしゃべりしました。お酒の入った梶山さんは座談の名手で、常陸太田の自然の中で丸めた綿玉を竿に垂らしてカエル釣りしたことから、パリで晩年の藤田嗣治のアトリエを訪ねたことまで、とても楽しそうに語ってくれました。
そういう中で、とても印象に残る梶山さんの創作の機微にふれる話を聞いたことがあります。留学中のある時、パリの絵描き仲間から「僕の背中にはジョルジュ・ド・ラ・トゥール(17世紀フランスの画家)がいるけど、トシオの背中には日本の誰がいるんだ?」って聞かれた。青年梶山俊夫はハッとして、美術史で日本の画家の名前は知っていても、背中にとりついていると言い方を自分はできない、これはいったん日本に帰るべきだと決心します。
そして、自分はどこから出発すべきかと、恐らくいろいろ煩悶しながら全国の奈良時代の国分寺跡を訪ねたりしているうちに、鳥獣戯画に出合うのです。
当時「こどものとも」の編集長だった松居(直)さんに、鳥獣戯画をもとにした絵本を作るから手伝ってくれないかと頼まれます。レイアウトを担当するのですが、その前に特別に本物の鳥獣戯画を目の前で見せてもらいます。梶山さんはその時、鳥羽僧正が絵巻を挟んて座っていて、これ、おまえさんが描いたんじゃないの、同時に、今度はおまえさんが描く番だよ、って言われた、と語っています。(このあたりは、私の記憶を、私も寄稿させてもらった平凡社別冊太陽『絵本の作家たちⅣ』でのインタビュー記事で補完しています)
梶山さんは、ふつうの語り言葉で、お酒を飲みながらでも、創造の機微に関わる事柄を語れる人でした。これが梶山俊夫の画家・絵本作家としての出発点になるのですが、文章は木島始という詩人が書いて『かえるのごほうび』(福音館書店)というタイトルで今も単行本として手に取ることができます。
この『ふしぎなたけのこ』(松野正子作 瀬川康男画/福音館書店)は画家・瀬川康男さんの初期の傑作ですが、瀬川さんも日本の伝統美術、特にさっき挙げた「信貴山縁起絵巻」や「伴大納言絵詞」などの絵巻や江戸時代の版本などを懸命に学び自分ものにして、作品に生かしています。ここでは、とても大きなタケノコに導かれて、生まれて初めて海の水をなめた山の村人たちの表情が、とても生き生きと表情豊かに描かれています。
瀬川さんは、この作品でブラティスラヴァ世界絵本原画展のグランプリを受賞しています。
梶山さんも同じ原画展で賞を二度取っていますが、次の赤羽末吉は、小さなノーベル賞と言われる国際アンデルセン賞画家賞を1980年、日本人として初めて受賞しています。
私は幸運なことに、赤羽先生の「こどものとも」最後の作品『にぎりめしごろごろ』(岩手の昔話 小林輝子再話/福音館書店)を担当することができました。そのラフスケッチの美しかったこと! ラフスケッチとは本描きの前に作家が作る構成案ですが、そのラフを見ながら先生のコメントをもらった時、赤羽末吉の名言「絵本は横に流れる紙の演劇だ」という意味がしっかり理解できました。赤羽末吉もまた、日本の伝統美術をほとんど独学で学び、日本画の技法で『つるにょうぼう』(矢川澄子再話/福音館書店)という限りなく美しい絵本を作った人ですが、ここでは別のスタイルで描いた絵本を見てみます。
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大型絵本に作りなおすきっかけは
この『スーホの白い馬』(大塚勇三再話 赤羽末吉画/福音館書店)は長く国語の教科書に採用されていますからよく知られていますが、この大型判で読まないと、モンゴルの大草原で繰り広げられるスーホと白い馬の物語を本当に味わったことにはならないと思います。
実は、この大型絵本の前、1961年「こどものとも」10月号で同じコンビで同じ物語を絵本にしています。しかし当時の「こどものとも」は9場面のみ、サイズはB5判ですから、自分が戦前大陸で見てきた二重虹がかかり、360度周囲を見渡せる大平原の広大さはとても表せない。それで赤羽末吉は松居直にかけあって、判型を大型に、ページ数は大幅に増やすという条件を出して、新たな構成案を練り大型版を作り始めます。
そして、前々回の東京オリンピックの3年後1967年に、戦後日本の絵本を代表する傑作が誕生するのです。
これは、あとでずる賢い殿さまにだまされるとも知らずに、スーホが大事に大事に育てた白馬に乗って、町の競馬大会に出てスタートする場面です。馬と騎手たちが躍動して走り出す様子がアップで描かれます。
そしてページをめくった次の場面ではカメラがいっきにロングに引かれて、大平原を先頭を切って飛ぶように走るスーホと白馬が描かれています。まさに「劇的」な場面転換です。下部50ミリくらいが全て「余白」として切り取られていて、これがまた大平原をさらに広く見せる効果となっています。
この赤羽の大型版『スーホの白い馬』の制作に大きな影響を与えたのがスイスの画家フェリクス・ホフマンの『ねむりひめ』(グリム童話 瀬田貞二やく/ 福音館書店)であることはあまり知られていないかもしれません。ホフマンさんの作品は私も若い頃から大好きで、退職したらその故郷アーラウを訪ねるというのが宿願だったのですが、昨年ようやく実現しました。コロナ禍で動けませんでしたからね。
ホフマンはチューリッヒの近くの小さな町アーラウで、最初は中学の美術教師をしながら、近隣の教会のステンドグラス、市庁舎やサナトリウム、小学校の壁画を制作したりして地元で活躍し愛された作家でした。私はそのことを自分の眼で確かめたかったのですが、この『ねむりひめ』の表紙と裏表紙を広げると見えるこの風景と同じ、なだらかな丘に囲まれた小さな町のあちこちに、ホフマンさんの作品が大事に保存されていました。絵本は、主にご自分の娘たちや息子のために手描きで作り、それが公に出版されると世界で高い評価を受けたのです。私の悪いクセ、脱線しました(どこかで聞いたセリフ?)
これは、ねむりひめのお城がのびにのびた茨ですっぽり覆われ、100年近く経ったという場面ですが、ここでホフマンは西洋の画家にしては珍しくとても大胆に「余白」を使っています。しかも、ねむりひめのいるお城はシルエットで表されています。ここはいわば幕間ですが、『スーホの白い馬』にも同じような幕間があります。ぜひ読み比べて探してみてください。
最後に、赤羽末吉の言葉を引きます。「私の目標は、やはりホフマンの『ねむりひめ』で、さし絵をしてもよく主題をかたり、なお一枚一枚をはなしてみても、格調たかい立派な美術品であることだ」。これは、大型版が仕上がる同じ年・1967年6月号の「こどものとも」折り込み付録に寄せられた「私の絵本づくり」という赤羽のエッセイにある言葉です。
今までご覧いただいたように、質の高いすぐれた絵本は、大人の鑑賞にも十分耐えうるものであるし、それは、絵本を制作する作家が、志を高く保ち、先人の作品や自国の伝統美術に敬意をはらい、それを全力で学び、全力で創作したからだと、私は考えています。
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ここからは放課後時間ということで、今まで紹介した作家よりもう少し若い作家の作品を見てみましょう。
これは『はじめてのおつかい』(筒井 頼子 さく 林 明子 え/福音館書店)です。
これは林明子さんの初期の代表作です。林さんは、子どもたちの表情だけでなく、しぐさや身体の動きを本当によく見て絵本の場面を描いています。林さんは絵本を描く時、必ず姪御さんや近くの公園に遊びに来る子どもたちを何時間も観察し、スケッチしてから制作に入るそうです。
例えば、これは初めて一人でのおつかいを頼まれたみいちゃんが、少し緊張して道を歩いていると、すごいスピードで自転車が走ってきて、塀にぺたっと張り付いたところ。みいちゃんの気持ちと身体のこわばりが、とてもうまく表現されています。
この場面は、坂の上にあるお店まで急いで行こうとして焦って坂道で転んだところ。転んですりむいた膝を左手でなでながら、身体と顔を左に少しひねって落っことしたお金を探している姿勢のみいちゃんを、斜め上の視点からとらえています。ここでも膝は痛いけど大事なお金を探さないと、というみいちゃんの気持ちが伝わってきます。
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後ろ姿で物語を語る
突然ですが、これは鏑木清方の絵です。「西の松園、東の清方」と言われて、「築地明石町」という美人画で有名な画家です。
『あさえとちいさいいもうと』(筒井 頼子さく 林
明子え/福音館書店)は『はじめてのおつかい』の3年後に作られた絵本です。ここでは絵本の舞台が、下町から山の手の住宅地に少し格上げ?されているようですが、銀行にでかけるお母さんに妹のめんどうをみるように頼まれたあさえが、妹を喜ばせるつもりで道路に絵をかいてやりながらつい夢中になり妹を見失ってしまう。林さんは、あわてて妹を探し回るあさえの後ろ姿を7場面も使って描いて、あさえの気持ちの動揺や焦りを読者に伝わるように描いています。
ここからは解説なしで、林さんの絵だけを味わってもらえればいいのですが。
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大通りの向こうで自転車にぶつかったのが妹だと思って、あさえが心配する場面。
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そして、あそこだ!っと、妹を見つけて、思いっきり駆けだすあさえの後ろ姿。
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これは後ろ扉。文章はなく、絵だけであさえの気持ちを語っています。
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絵本にはオノマトペ(擬音・擬声語)や繰り返しや歌がよく出てくる
最後に、私が駆け出しの頃、『もりのなか』に触発されて初めてイチから企画し編集した絵本『めっきらもっきら どおん どん』(長谷川摂子作ふるやなな画/福音館書店)をお見せします。これが不思議なことに40年近く読み続けられていて、今は100刷を越えて版を重ねています。これはもちろん作者の長谷川さんの言葉の力と降矢さんの絵の勢いがあってこそで、嬉しいことですが、すぐれた絵本は、『ピータラビットのおはなし』や『ペレのあたらしいふく』(共に福音館書店)のように100年を越えて読み継がれ、200刷りを越えている作品もかなりありますから、100刷りなどまだまだです。
絵本を作っていて、よく思いましたが、子どもたちが大好きで長く愛される絵本は、オノマトペや繰り返し、歌などを巧みに取り入れているものがたくさんあります。
この「めっきらもっきら どおんどん」というタイトルも、実は、長谷川さんがご自分のお子さんたちと一緒によく歌っていたでたらめの歌から採られています。ちょっとわらべ唄のようですね。
そして、「あそぼうぼうのくに」に到達すると、3人のおばけと出会い、不思議で楽しい遊びを体験することになります。この3人のおばけの名前や、かんたがおばけたちとする遊びは、作者の長谷川さんが愛読していた民俗学者の柳田国男が収集した、昔から伝承されてきた言葉や行事を、とてもうまく使って物語に生かしてくれています。
これは、中川李枝子さんと大村百合子さんの超ロングセラー作品『ぐりとぐら』(福音館書店)。ここにも、子どもたちが大好きで、この物語に子どもたちを引き込むすてきな歌が入っていますね。「ぐりとぐら」という主人公の名前も、フランスの絵本のオノマトペからとられているそうですよ。
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突然、思い出した絵本
先ほど、参加者の方から、「子どもの時に読んだ絵本を覚えていない」という声がありましたが、実は私も絵本に関わるようになったから、突然そういえば、と思い出した絵本があります。幼稚園時代に、担任の先生に読んでもらった『ちびくろさんぼ』( ヘレン・バンナーマンぶん・ フランク・ドビアスえ/その頃は「岩波の子どもの本」現在瑞雲舎)です。黒人の描き方が類型的だとして批判がありしばらく絶版になっていましたが、少し前に復刻されました。子どものための物語としては、繰り返しの手法を使ってスリルがあり、結末もトラがとけてできたバターでホットケーキを焼いて、さんぼが169枚も食べるのですから、大満足です。すぐれた物語絵本だと思います。中川李枝子さんも、保育園の保母さん時代に、子どもたちがあんまりこの絵本のホットケーキに夢中になるものだから、じゃあ、もっと高級で大きなカステラをぐりとぐらに作らせて子どもたちを驚かせようと思って『ぐりとぐら』を創作したそうですよ。
子どもの時読んだ絵本を、私のように何かのきっかけで突然思い出すことはよくあることです。どうか楽しみにしていてください。
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最近注目した絵本
最近、読んだ絵本の中で注目している絵本がこれです。
『もじもじこぶくん ピンクのぼうし』(小野寺 悦子 ぶん きくち ちき え/福音館書店)です。
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校長の感想
1時限40分と放課後30分の合計70分が短く感じたE.fong氏の絵本の世界への見事なツアーでした。絵本の裏側にはこんなに広大な世界が広がっていたのですね。私の危うい記憶とメモを頼りに起こした授業のメモ原稿にも丁寧に筆を入れていただき、あの中身の濃い授業がさらに膨らみました。E.fong氏の絵本への深い愛を感じました。ありがとうございました。当日参加できなかった方達にもぜひ読んでいただきたいです。
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E.fong氏の感想
私は1、2回しかズームを使ったことがありませんでした。でも今回の多田図尋常小学校のように離れた方とも、気軽にお話ができるのはとてもいいと思いました。少し、隔靴掻痒の感がないわけではありませんが。
それもあってか、中城さんにせっかくまとめてもらった文章に、ずいぶんたくさん補筆してしまいました。せっかく貴重な日曜日の午前中の時間を割いて、私の話を聞いて頂いたのだから、少しでも正確に私の話したいことを伝えたいと思ってのことですが、量が多くなり過ぎました。どうか適当に読み飛ばして下さると幸いです。