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☆NEW 最新!! 943 多田図尋常小学校の人々「次回はイザイとティボーを取り上げます」


●2限目 音楽
 
「Coffee Break Music In Tadaz」 
 本日のバリスタの気まぐれブレンド
「シンセサイザーの開祖と
  現代日本の映画音楽」

   T.eng氏(音響エンジニア)

 
 
映画の世界において音響の重さは前回、身をもって理解いただけたかと思います。今回は視点をまた少し変えて現代映画音楽の巨匠と日本におけるシンセサイザーの開祖を取り上げてみましょう。取り上げるべくはこの二人、シンセサイザー音楽の世界的開祖、冨田勲とジブリから武の映画のパートナー久石譲。今回はこの二人にフォーカスを充ててお届けいたします。

 

最新技術を駆使し立体的な未知の領域まで攻め続けた作曲家
 富田勲は1932年に東京で医師の長男として生まれ、父親の転勤で中華民国青島、山口防府市、中華民国北京で過ごします。その時、父に連れられて天壇公園で聞いた「回音壁」の音が、音楽の原点になります。1939年に帰国し、父の実家のある愛知県本宿村に住み、竹で笛を作りモールス信号で遊んだりします。戦争中から短波ラジオを自作して米軍放送を受信、ジャズやクラシックを聞いていました。1949年に両親の意向で慶應義塾高等学校に編入合格して上京、在学中は進駐軍のラジオを聞き続けてました。同級に小林亜星がいました。慶應大学に進み、美術史を専攻、音楽理論も学びます。大学2年でコンクールで応募曲が1位になり作曲家への思いを固めます。在学中からNHKや民放の番組の音楽を担当し、作曲活動を始めレコード会社や、コマーシャルなどの作曲も行います。
 1969年の大阪万博の東芝IHIパピリオンの仕事で3ヶ月滞在し、立ち寄ったレコード店でモーグ・シンセサイザー(MOOGIII-C)を使って作ったウォルター・カルロスの「スウィッチト・オン・バッハ」を聞き、衝撃を受けつつも「俺ならもう少しマシに作れる」と思いました。あまりに高額(6000ドル)なため購入資金で苦労したものの、 
1971年に
 
日本で初めてモーグ・シンセサイザー(MOOG III-P)を個人輸入しました。しかし税関で軍事用コンピュータと疑われストップされ、キース・エマーソンの演奏写真を提示して楽器であることを説明、やっと輸入することができました。しかし取り扱い説明書も難解で使い方がわからず苦労しながら少しずつ使いこなすようになりました。やがて自宅にマルチトラックレコーダーを導入してスタジオを作りあげ、ここからシンセサイザーの作品を作り出します。1年4ヶ月後に「月の光」が完成し、日本のレコード各社に持ち込むも、レコード店に置く棚がないと軒並み断られます。そこで日本RCA東京出張所所長に頼み込んでニューヨーク本社と連絡をとってもらい面会、レコード発売契約にこぎつけて、ようやく1974年4月に発売されます。アメリカでは、すでにシンセサイザー音楽が発売されており「月の光(Snowflakes Are Dancing)」は大ヒットします。

 1975年1月のビルボード全米クラシカル・チャートの第2位にランクイン、1975年3月のグラミー賞にもノミネートされます。それから日本でもNHKや民放に取り上げられ「月の光」は逆輸入されます。全米レコード販売者協会の1974年最優秀クラシカル・レコードにもなります。

 1975年2月発表の「展覧会の絵」はビルボード・キャッシュボックス第一位、日本レコード大賞受賞、1975年9月発表の「火の鳥」はビルボード第5位、1976年12月発表の「惑星」は1978年2月のビルボード第1位、「バミューダ・トライアングル」、「大峡谷」もグラミー賞にノミネートされ、日本、世界で広く知られるようになります。ライブ活動も
積極的に行い「トミタ・サウンドクラウド」を欧米や日本で開催し、
 
2001年に東映50周年記念作品「千年の恋 ひかる源氏物語」の音楽として日本アカデミー優秀音楽賞受賞しました。
 
 常に新しい技術にも意欲的に取り組み、2012年には合成音声技術「VOCALOID」の初音ミクを起用して「イーハトーブ交響曲」を作曲し、初演しました。2016年に慢性心不全で84歳で亡くなりました。

 シンセサイザーと生歌の融合も得意とし、デジタルコンピューターサウンドを駆使することで、立体的でこれまで私たちが体験したことのない未知の領域まで徹底的に攻めていく作曲家だと言えます。彼の作品は海外の著名人にも大きな影響をあたえており、スティービー・ワンダーが最も尊敬している作曲家であり、マイケル・ジャクソンはわざわざスタジオを訪問、フランシス・フォード・コッポラ監督も「地獄の黙示録」の音楽を熱望したが契約上の問題で実現しませんでした。

垣根を超え変化し進化し続ける      21世紀型の作曲家
 久石譲は1950年に長野県で生まれます。4歳から鈴木メソードの鈴木鎮一ヴァイオリン教室に通いはじめ、さらに高校教師の父親に連れられて年間300本もの映画を見ます。中学校ではブラスバンド部に入部、演奏より譜面を書く楽しさに気づき作曲家を目指すようになります。高校から音楽理論を学び、国立音楽大学の作曲科に進み島岡譲から学びます。20歳でミニマル・ミュージック(簡単な音型を反復させる現代音楽)と出会って現代音楽作曲家として活動を始め、同時にミニマル・ミュージックの作曲家や武満徹、三善晃など日本の作曲家の作品分析も行います。大学卒業後はアンサンブルグループを結成してコンサートを行い、1974年にテレビアニメ「はじめ人間ギャートルズ」の音楽を担当してプロデビューします。1975年には日本フィルハーモニー交響楽団のコンサート用に映画音楽の編曲を行います。1981年、これまでのミニマル・ミュージックの活動を集約したアルバム「MKWAJU」を日本コロンビアよりリリースします。

 1984年には宮崎駿監督の「風の谷のナウシカ」の音楽を担当します。当初、細野晴臣を予定していましたが、より映画のイメージに近い音楽をと、宮崎監督と高畑プロデューサーが相談の上、無名の久石の起用が決まりました。1986年「天空の城ラピュタ」、1988年「となりのトトロ」と宮崎作品の音楽を担当します。1991年には北野武監督の「あの夏、いちばん静かな海」も担当しますが、当初日程が合わず断ったのですが、北野が1ヶ月待つと決断して実現しました。1992年には3年連続で日本アカデミー賞最優秀音楽賞を受賞し、1997年には「もののけ姫」の音楽を担当し、1998年には1997年度芸術選奨新人賞受賞、長野オリンピックの総合演出を行いました。1999年に北野作品「菊次郎の夏」の音楽を担当し、サブテーマ曲の「summer」を北野が気に入ってメインテーマとし、北野曰く「悲しみを表現する天才」と絶賛しました。さらにトヨタカローラのCMにも採用されました。2001年には、宮崎の「千と千尋の神隠し」、北野の「Brother」、2004年には宮崎の「ハウルの動く城」の音楽を担当します。

 ミニマル・ミュージック(現代音楽)、ポップスを経て、2009年からクラシックに活動を移し曰く「時代や国境を超えて聴かれ演奏される音楽を創作したい」。「もののけ姫」の世界観を表すために2年かけて、フルオーケストラの曲を書き上げてから、クラシックのスコアの研究を進め、指揮法を学んで指揮者として活動を始め、特に印象に残った作曲家はベートーベンとブラームスと述べています。音楽の垣根を超えて、カメレオンのように変化しながら、常に進化し続ける姿は、アメリカの映画音楽のレジェンド、ジョン・ウィリアムズと重なってきます。おそらく最新の技術―それこそAI技術さえも―軽やかに飛び越えて進化する、まさに21世紀型の作曲家とも言えるでしょう。
雨宮真由美さんの感想
 今日も本当に面白くて大感動でした。私の好きなジブリ関連のお話も興味深く、これから曲を聴くときは今日のお話を思い出しながら聴けます。
佐越直人さんの感想
 前回は調子の悪かったズームもT.eng氏のアドバイスを受けて再設定して、おかげで素敵な音楽を堪能できました。今回、馴染みのある曲が流れるたびにリアルな情景が広がって音楽の力を再認識しました。冨田勲のコーナーでは「あ、これも富田勲の曲だったんだ」と気付かされましたが、彼の曲は知らずにあちこちで聴いていたんですね。意外と身近な人でした。
校長の感想
 冨田勲の曲が逆輸入された時には日本中で「月の光」が流れていて「この不思議な音色が噂のシンセサイザーなんだ」と思ったことを思い出しました。先日、アメリカの映画音楽のレジェンドでもあるジョン・ウィリアムスのお話を伺い、びっくりしたのですが、日本にも久石譲という怪物がいたのですね。
T.eng氏の感想
次回はイザイとティボーを取り上げます。