●2限目(10:10~10:50)音楽
「Coffee Break Music In
Tadaz」
本日のバリスタの気まぐれブレンド
「
二大巨頭
」
T.eng氏(音響エンジニア)
クラシックはドイツ&オーストリア、イタリアと並びフランスも超一級の作品が存在する国。
となればフランス生まれの指揮者も超一級が揃っています。その古典的な位置にいる
指揮者とすればアンドレ・クリュイタンスとシャルル・ミュンシュ。ドビュッシーや
ラヴェルをはじめとしたフランス作品は彼らが名盤としてたたえられます。フランス流指揮はまずはここから入っていきましょう。
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ドイツ系フランス系音楽の両方の
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・・・「いいとこどり」を高いレベルで
・・・・・・・・・・可能にする指揮者
アンドレ・クリュイタンスは1905年にベルギーのアントウェルペンで音楽家の家系に生まれました。父親は王立劇場の指揮者で、小さな時から音楽教育を受け、9歳から王立音楽院でピアノ・和声・対位法を学びました。ベルギーは多言語国家でフランス語、フラマン語、ドイツ語が公用語です。ほとんど使われていないドイツ語を父親から教えられました。クリュイタンスは小さな時からフランス語圏でドイツ語を学ぶことを通して、自然にラテンとゲルマンの二つの文化が身について、ドイツ音楽をも得意とするフランス語圏の指揮者として高い評価を得たと言えます。
アントウェルペン王立音楽院卒業後、1922年に王立歌劇場の合唱指揮者、1927年には王立歌劇場第一指揮者となり、1932年からはフランスの歌劇場でも活動を開始します。1944年にはパリ・オペラ座の指揮者となり、1949年からパリ音楽管弦楽団の主席指揮者となり1967年に亡くなるまで活動を続け、フランスを代表とする指揮者となります。1955年にはバイロイト音楽祭にて歌劇「タンホイザー」を演奏、1956年にはエーリヒ・クライバーの代役としてウィーン・フィルハーモニー管弦楽団とアメリカの演奏旅行に行き大成功をおさめ、さらにベルリン・フィルハーモニー管弦楽団、チェコ・フィルハーモニー管弦楽団にも出演します。1964年にはパリ音楽院管弦楽団と来日、その演奏のあまりの素晴らしさに日本のオーケストラを絶望させました。1967年胃癌で62歳で亡くなります。指揮者として、まさにこれからという時で、おそらく70歳代まではキレッキレの演奏による名盤を作れたと思うと、その早すぎる死去はとても残念に思います。
フランス系の音楽家の父親から厳しくドイツ語を教えられたこともあり、ドイツ系フランス系両方の、いいとこどりを高いレベルでできる貴重な指揮者といえます。演奏レパートリーはフランス人作曲家の作品を得意として、ラヴェルの管弦楽曲集、ビゼーの「アルルの女」組曲、ベルリオーズの「幻想交響曲」などがありますが、特に「ローマの謝肉祭」など彼なしでは語れないほどの名盤となっています。それに加えてドイツ系楽曲の演奏も高く評価され、バイロイト音楽祭に招待されたり、ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団のベートーヴェン全曲集録音の指揮者にもカラヤンを差し置いて選ばれています。
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ボストン交響楽団を
独仏両方の特質を兼ね備えた
世界的な楽団に育て上げた
シャルル・ミュンシュは1891年にドイツ帝国領だったアルザス地方ストラスブールにて、教会オルガニストで合唱指揮者のエルンスト・ミュンヒの息子として生まれます。ミュンヒ家は元々ドイツ系アルザス人で、アルザスがフランス領になった時、ドイツ国籍を取得するも、ナチスが勢いを増すことを嫌いフランスに帰化します。
シュトラスブルク音楽院に入ってヴァイオリンを習い、1926年にライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団に入り、1932年までフルトヴェングラーやワルターのもとでコンサートマスターを務め、天才指揮者の指揮を間近に見ることになります。ライプツィヒのトマス教会でバッハのカンタータ演奏会で代役として指揮をし、さらにはゲヴァントハウス管弦楽団でも代役を務め、ヴァイオリン演奏から指揮に進路を変更します。1929年にはパリで指揮者デビューをして1938年にパリ音楽院管弦楽団の常任指揮者となり、フランスの音楽界の頂点を極めます。ナチスの傀儡政権とも言われるヴィシー政権下のフランスにとどまり活動を続けますが、ドイツ国内での演奏は断固拒否し、レジスタンスに資金提供を続け、戦後、コマンドゥール勲章を授与されました。終戦後の1949年に渡米、1962年までボストン交響楽団の常任指揮者を務め、同楽団の黄金時代を築き上げます。ボストン交響楽団は前任の主席指揮者のセルゲイ・クーセヴィッキーが鍛えた上げた土台にミュンシュが情熱的な音楽を吹き込み、世界的な楽団に育て上げたのです。ドイツ系フランス人で二つの国の音楽に通じているミュンシュは、両方の音楽の特質を兼ね備えた一流の楽団に仕上げたともいえます。1960年にボストン交響楽団、1966年にフランス国立放送管弦楽団とともに来日、1962年には日本フィルハーモニー交響楽団を指揮するために単身で来日しています。1967年にはパリ交響楽団の初代音楽監督になり演奏旅行先のアメリカのリッチモンドで心臓発作で77歳で亡くなります。
ミュンシュの指揮は、指揮棒を風車のように振り回しながら、その情熱的で熱気に満ちた演奏は大きな人気を誇りました。また有名な練習嫌いで即興演奏を好み、本番になると練習とは異なる指示を出すことも多かったようです。高い技巧を持つ演奏者たちも音楽的な駆け引きが得意で、結果として高いレベルの演奏を作り上げて行きました。細かい演奏のミスには目も向けず音楽全体を捉えながら演奏する指揮者でした。またボストン時代に小澤征爾にフランス流の音楽を教えたことでも有名でした。
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松本真司さんの感想
日曜の朝から音楽を聴くことができて、それが新鮮で気持ちがよかったです。
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校長の感想
「ボレロ」とか「動物の謝肉祭」などの曲は聴いたことがありましたが、二人のフランスの2大巨頭は来日して高い評価を受けていたにもかかわらず、その名前は全く聴いたことがありませんでした。このコーナーのおかげで出会うことができました。
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T.eng氏の感想
次回は次回は内田光子と若杉弘を取り上げます。